深夜。この時間はよほどの場合就寝しているのだが、ついつい読み物に没頭してしまった。栞を挟んで本を閉じ、妙に冴えてしまっている目をごまかすため白湯でも飲もうかとキッチンへ向かった。ーそこでは、シスターがカップを片手にぼうっと座っている姿があった。眠っているわけでもなく、うつらと船を漕いでいるわけでもなく。ただ虚空を見つめるように、静かに佇んでいる。
小さく声をかけても反応はない。実は眠っているのかとも思ったが、瞬きはしているしカップを持つ指先は動いている。
「シスター」
「ッ!―あ、シロウ、神父…。どうされました?」
「いえ、こんな時間に何をしているのかなと…」
肩をたたいてようやく、本当に初めて気付いたかのように驚いて振り向いた。そこまで驚かれるとこちらもびっくりしてしまう。慌てて取り繕うシスターに苦笑すれば、シスターはハッと時計を見て勢い良く立ち上がった。
「も、もう一時!」
「はい。…白湯、も冷めていますし、かなりの間ボーっとしてたんじゃないですか?」
「かもしれません…明日は自治体の会議があるんでしたよね?だというのに、すみません」
「私もこの時間まで本を読んでいましたから、お互い様ですよ。体調は大丈夫です?身体、冷えてませんか。私も就寝前に白湯を一杯いただこうと思ってましたので、よかったら貴女の分も」
「あ…。はい、お言葉に甘えて」
水の入ったカップを拾い、シンクに流す。棚からやかんを取り出し水を入れて日にかけている間に自分用の湯呑みを取り出すとシスターのカップと並べた。
「シロウ神父は、なにか夢とか、ありますか」
「夢、ですか。…それは例えばどんな」
「どんなものでも。己の志に基づく夢です」
湯を沸かしている間、ふと思いついたように沈黙が破られる。問われた話題に、私は視線をそらした。
夢はある。×××の××。…けれどそれを理解してもらうには、私の全てを話さなくては糾弾されてしまうだけだろう。どころか、聖堂教会の―秘蹟を守る立場にある彼女がそれを報告でもしてしまえば、私は即刻首を跳ねられる可能性すらある。…なので、嘘は言わないが、当たり障りのない事を言っておこう。
「そうですね。あまねく全ての人々の平和と幸福、でしょうか」
するとシスターは呆気にとられたようにきょとんと私を見やった。
「…そんなに意外ですか?」
「いえ、そんなことは!…ただ、」
今度は表情を沈ませて指先へ視線を落とす。じっと彼女の次の言葉を待つ。
「ただ、…ええ。私も、あまねく全ての人々の平和と幸福を、祈っていたのです」
「それは貴女らしい。私が言うよりも板についています」
「…―ありがとう、ございます。…でいいのでしょうか、この場合は」
頷けば、シスターはどこか暗い表情のまま微笑んだ。そこでふと、今の言葉を反芻する。…彼女ならば、「祈っていた」ではなく「祈っている」と、表現するのではないだろうか。発音が怪しいところはあっても、ここまで流暢に日本語を話す彼女がこの期に及んで現在形と過去形の使い間違いをするとは思えない。
「…祈って、いる…」
「シスター…?」
「祈って、いた…のです。確かに。けれど私は、」
ぐ、と唇を噛み締めうつむいてしまう。どうしたものかと言葉を探っていると、火にかけたやかんの水が沸騰している気配を察知し、ひとまずそちらへ向かい白湯をふたつ注いだ。熱い湯水の入ったカップをシスターの前に差し出せば、礼と共に一口。流石に舌が火傷するのではないだろうかと案ずるも、気にした様子もなく一息ついていた。
「…日々、意識が混濁するのです。私じゃない私が、主に祈るのは馬鹿げたことだと悪魔のように囁く。私の願いなど取るに足らないもので、私にはすべきことがあるのだと甘言を」
「…それは…」
「人々に幸福あれと願う私のこころが唾棄すべきものだとでも言うように。…だから、最近、眠るのが恐ろしくて」
疲れきった顔を見せて、力なく微笑む。とても儚げで、今にも消えてしまいそうだった。…想像の範疇でしかないが、それはきっと、あの魔術刻印が彼女を乗っ取っているということなのだろう。魔術刻印をすげ替えられてしまうだけで、考え方まで変わるものだろうか。これは果たして継承なのか。それともまさか―。
まぶたを閉じて首を振る。案ずることはない。後継者であるならば、死ぬことはないはずだ。ただ魔術を持って管理されるその膨大な知識をインストールするのに、体調が変化するほど魔力が消費されてしまっているだけにすぎない。
「子守唄でも歌いましょうか」
「―ふふ。ありがとうございます。日本の子守唄は気になりますけど、でも大丈夫ですよ」
「…何かあったら、遠慮なく、なんでも言ってくださいね。微々たることでも。力になれることが、きっとあるでしょう」
…そのはず、だ。
§
時々彼女が寝ている隙に、彼女の魔術回路を弄っている。少しでも体調良く、…少しでも早く、シヴェールの秘蹟を手に入れるために。そのおかげか進行が少し早くなっている。このままでいけば、完全に侵食されシスターがシヴェールになり変わるのは一年以内だろう。冬木の教会が霊地の上に建っているからか魔力の枯渇によって倒れたり意識を失うことは滅多にないが、それでも時々貧血気味になったり、眠る時間が少し遅くなったりという変化は見られた。
―それから。
「私、どうしてこんなに涙が出るのでしょう」
「はい?」
「信者さんの涙を見ていると、つられて泣いてしまいます。でも少しも悲しくないんですよ」
心底不思議そうに首を傾げるシスターは、璃正神父が亡くなったあの時からはまるで想像出来ない発言だった。泣けない人、死に目に合うことが出来ない人、残された様々な未練のために泣くのだと、恥ずかしげでも誇らしく言っていたシスターは、日に日に別人のような考えになっていた。神への考え方、人々への想い、様々な事が。そしてその自分の発言にまた首を傾げて、苦しそうに顔を歪める。都度忘れてくださいと俯く彼女は、とても疲れているように見えた。
「…本部は、呪いについて何か対処は?」
「相手が得体の知れない魔女ですから、下手に解呪を試みることも難しいと。…一度調べてはもらったのですが、魔力が減り続けている事以外はそもそも分からなかったんです」
食事を終えて休息にお茶を飲みながら、シスターは陰鬱なため息を漏らした。自分の発言が、考えが、元来の信念を裏切るものだからだろう。先程も、食前の祈りを忘れてフォークを握り一口食べたところで絶望したような顔で祈りを捧げていた。
「…私が私でなくなっているようです。神に背く考えになって、神のご加護を失うのがとても恐ろしい」
「シヴェールの噂は、聞いたことがあります。とても力の強い魔女だと」
「噂の大半は独り歩きしていたものが多いです。私達は根源には至っていないし、不老不死でもない。ただその―、…ッ」
震えて、青ざめた顔で口を塞いだ。敵であるはずの存在がまるで自分かのような言い方。…これほど恐ろしいことなどないだろう。唇を震わせ、シスターは―あの時とは違う涙を、ぽろぽろととめどなく溢れさせた。美しい雫は頬を伝い、彼女の衣服に滲む。私は立ち上がりシスターの側まで近寄ると、その手を握り微笑んだ。祈るように、安心させるように。
「大丈夫ですよ。きっと、神は魔女の行いを滅し、信じる貴女を救うでしょう」
「救いを―救いの前に、私、が…世界…を、」
「シスター?」
「願わくば―」
はたりと涙を止めこちらを見上げると眉を下げて微笑んだ。かなり疲労の見える元気のない笑顔。
「願わくば、世界の果てを」
それだけ呟いて、シスターは意識を失った。ゆらりと私へ倒れ込み、死んでしまったかのような静かな呼吸で―しかし命を繋いでいた。右手に魔力を通し彼女の状況を診察する。…彼女の元々の魔術刻印が、もう残っていない。それを取り込んで、もう一つの刻印が居座っている。シヴェールの魔術を、完全に引き継いだのだ。魔術刻印の乗っ取りが完了し、シヴェールのそれへと作り変えていく。なんと恐ろしい魔術だろう、仮にも代行者であったならば、それほどの強い信念と矜持を持っていただろうに。それさえも破砕してしまうとは。
「…おや」
彼女のきれいな黒髪が、僅かに煌めいた。目を凝らせば、表面の数本が脱色している。…ストレス、あるいは疲労によるものだろうか。それとも―ギリオンの髪色を思い出す。シヴェールの見姿は、眩しい銀髪と虹色のような瞳、それ以外は聞く人によって様々だが、それだけが共通している。つまりは、彼女もその特徴を得るのか。
「…あの、黒髪が」
さらり、と撫でる。指を絡めればしっとりと柔らかで、引っかかること無く抜けていく。―じくり、胸が痛んだような、気がした。
振り払うように息をついて、彼女を抱き上げると教会の建物内で一番魔力が引き上げやすい自分の私室へ運んだ。私の経歴を考慮して、璃正が用意してくれた部屋だ。
静かに眠るシスターの頬に触れ、ただ何かを思う。順調過ぎて驚くくらい、上手く行った。偶然の積み重ねであろうと、彼女は確かにシヴェールの秘術を受け継いだのだ。彼女の見目が変わるくらいなんだというのか。シヴェールの持つ膨大な知識と秘術を手に入れるため、シスターを囲い自分に従順にさせる。それだけだ。という一人の少女の人格など、どうでもいいこと。…そのはずだ。
「……あの涙は」
それでもあの見惚れるほど美しく哀しい涙は、シスターがではなくシヴェールになってしまえば、二度と見ることなど出来ないのだろう。それを思うと―少し、ほんの少し。その胸の内に、もの寂しさが残る。
哀しみを表せない者のために涙した彼女の涙の美しさ、その魂の潔白さ。そんな稀有な人物が消えてなくなってしまうことが、今の自分にとってどれほどのことかはわからない。そんなことよりも、成さねばならない事があるゆえに。
ゆったりとシスターの瞼が上がる。その瞳はかの魔女ほどではなくとも、元の黒から驚くほど色素が抜けていた。虚空を見つめるそれは光がなく、だと言うのに瞳が光を放っているような感覚。シヴェールと相対したときもこれほど近距離では拝むことなどできなかった。けれどあの濡れた黒の瞳の方が綺麗だったと、頭の片隅で思う。艶のある絹糸のような黒髪も、まばらに色が抜けキラキラと僅かな光を乱反射させる銀白へと変わっていた。
いいようのない喪失感がある。まだかまだかと、待ち望んでいるのは今でも変わらないのに。
「シヴェールは、どうやって魔術の継承を?」
「私達の起源は、それぞれ結ぶ糸に関連する。それぞれを結び、繋ぎ、始まりであるアラネアの頃からの全ての記憶を受け継いでいる」
目を覚ましたシスターは、生まれたての赤子のように不安げに周りを一瞥した後、最初に見つけた私を親かのように見上げた。それからというのは簡単なもので、継承した以外の記憶―日常生活におけるそれについてあやふやになっていた彼女を甲斐甲斐しく世話をすれば、記憶の整理がついた頃には随分とこちらに好意を抱くようになっていた。
「つまり、そのアラネアの頃から見聞きしたことなら、すぐに分かるということですね?」
「”思い出す”くらいのタイムラグはありますけど。継承した記憶はあまりにも膨大だから、それを常に脳内に巡らせていたら爆発してしまうわ」
「ふふ、それもそうですね」
シヴェールの魔術刻印、基その記憶を受け継ぐと、達観するためか―それともギリオンの言っていた”世界の果てが見たい”という願いのためにこの継承を続けていくためか、全員が同じような雰囲気を持つ性格になるようだ。口調や食べ物の好みなどと言った趣味嗜好は受け継いだ人間がもともと持っていたものがそのまま残る。ただし、シスターのような信心深い心のようなものは、失われる。
「この瞳は魔術概念なんですよ。アラネアが完成させた復元宝具。悪しき魔力を跳ね返す吉眼。代を重ねるごとに様々な魔術起源が混ざり、より強力なディスペルが出来るようになっています」
シスターの瞳がシヴェールの魔術に馴染んだ頃、洗礼を施した特殊な布でその目を覆った。場合によっては気休めにしかならないのだろうが、受肉しているとはいえ私がうっかり消滅させられたら困る。―ギリオンの言葉を信じるなら、サーヴァントにさえ有効なのだろうから。
―…それにこうしてしまえば、彼女の目元から雫が溢れる所を期待することもなくなる。もちろんシヴェールの特徴を知る者にできるだけ彼女を晒さないためでもある。
変貌したシスターは、元の精神性なのか常ににこにこと笑んでいた。・だった時のように信者が亡くなる度に深く涙することは以降一度もなく。
「最近神父様は元気がないねぇ」
「…え?そうですか?」
「そうよぉ。シスター様も最近顔を見せないし」
毎日祈りに来ている信者の一人が、雑談の中私にそう言った。シスターは体調を崩している、とミサや信者訪問は全て一人でこなしているから、前は疲労を隠しながら積極的に関わっていたシスターとの接触があからさまに減れば、違和感も懐くだろう。
「もしかして、シスター様あんまり良くないのかい?それで神父様も元気がないんだ」
「…私は医者ではないので、容態はなんとも言えませんが。…今が峠というところなんでしょうかね、これを乗り越えられれば」
「やっぱりそうなのかい…なら私達も一杯祈っておかないと」
「ありがとうございます」
「いいんだよ、こないだ璃正神父が亡くなられたばかりだろう、気落ちもするってもんさ。それにシスターとは美男美女って感じでお似合いだっていって、みんな応援しているんだよ」
「応援、ですか」
「お若く見えるって言っても、綺礼神父がもう20歳とちょっとだろ?義理とは言えお兄さんなら、もうそろそろ考えるものだろう」
言外に言われたことに苦笑する。かれこれこの地で今を生きてかなりの年数が経っているのだが、この老婆は知らないだろう。
「…そうですね。彼女はとても敬虔で美しい人だ。それを自分の妻にしようだなんて、どこか罪悪感がありますが。…考えるのも、いいですね」
「というか私は、神父様はシスターのことが好きなんだと思ってたよ」
「はい?」
「だって神父様がシスターを見ている時の顔、すごく暖かいから」
喉が詰まる。そんなこと、思ってもみなかった。気付いてなかったのかい、と老婆は微笑んで、もう夕食の準備をしなくてはと教会を出ていった。また一人残された礼拝堂の中で、シスターを見ていたときの自分の感情を思い出す。
「…――」
「シロウ神父?」
「ッ、あ、シスター。どうしました」
「ミサが終わったのに戻ってくるのが遅いから…何かありました?」
「少し信者の方と雑談を。すぐ行きます」
小さく頷いてシスターはすぐに扉を閉じて去っていった。さほど興味のなさそうな、せいぜい早く食事の準備をしろといったくらいの確認でここまで来たのだろう。…前までの彼女なら、もっと心配そうに、大げさに眉を下げて、なんでもないと知ればあからさまにほっと胸をなでおろす。…一年にも満たないが、そういう姿は毎日見ていた。もっと、儚げで、…するりと、消えてしまいそうな。
××
不思議な虹彩の瞳を持つ魔女は、黒鍵を持ち立ちふさがる私を見て愉しそうに口角を上げた。強化魔術による余剰のダメージこそ殺されたものの、体術には滅法弱いらしく、黒鍵で体中を傷つけられながらも余裕の笑みを崩さなかった。素の体力で圧し魔女に膝をつかせた時、それまで隠していた右目を晒した。その両の目で見つめられた時、私の意識は混濁する。
脳内で反響する詠唱の言葉、自分が自分でなくなる感覚。視界が晴れた時、膝をついていたのは私だった。魔女は傷だらけながらも何でもなかったように立ち上がり、唯一生き残っていた私を一瞥して、その場を去っていった。混乱が治まった後どうにか私は教会に戻ると、しばらくの療養の後、異端審問員から第八秘蹟会へと異動が決まった。
日々意識が混ざる感覚に耐えながら、冬木の教会で言峰親子から第八秘蹟会の事を学んだ。とある日私は長く気を失ってしまい、彼に介抱された。それから彼は異常な程私に優しかった。その態度は私にはむず痒く、受け入れがたかった。けれど璃正神父が亡くなって、私がいつもの癖で絶えず涙を流していれば、彼は私に甘い言葉を囁いていた時とはまた違う顔で私を慰めた。涙を流す私を見る彼の目―愛しいものを見るようなあの物悲しい視線に、私は彼を愛で埋めたいと、そんな想いを抱いた。
けれどその想いは実現すること無く。日々私の意識は白く透明な色に塗り替えられていた。
シロウ神父と話していてつい意識を失うように眠りについてしまうと、起きた時随分とスッキリしていることがあった。体の中の混濁した何かが整理されたような。…塗り替えられようとしたそれは、あの魔女の血なのだと。あの両の目で射抜かれてから、私は魔女に呪われたのだと。不老不死を知るという魔女は、こうして他者に呪いをかけて生きながらえているのだと。魔女と呪いに対する恐怖と絶望で、私は呪いに対する抵抗をやめた。
それは何より。私に何かを施して、私が魔女へと変わることを求めている、シロウ神父のためでもあったのだ。私が心の底から抱いていた人々への想いが、今ではもう失われていくから。せめてこの変生さえも、誰かのためであってほしかった。
「願わくば―」
貴方に幸あれ。今消え行く一縷の愛を貴方に。
「願わくば、世界の果てを」
これは、私の言葉ではない。
×
「シスター?」
「…シロウ神父」
「どうしたんです、こんな時間に。もう眠らないと身体が休まないでしょうに」
深夜の礼拝堂で、シスターは奥に鎮座するシンボルの前で膝をついて祈りを捧げていた。気にしていないように質問を重ねるが、彼女の銀髪が、この状況に何かしらの異常がある事を明確にさせる。シヴェールの術を継承してからの彼女は、礼拝やミサ―いわゆる”仕事”の時しか神に祈らない。だからこそ、礼拝の時間でもなんでもない今、彼女が祈りを捧げているのは可笑しい事であった。
シスターはゆっくりと立ち上がり、なおもシンボルを見上げた。
「シロウ神父。貴方の知りたいことは、知れましたか」
「…―どういう意味ですか」
「私が受け継いだ、シヴェールの秘術です。その中に、貴方の知りたいことはありましたか」
振り向かないまま、シスターは静かに言葉を浮かべる。
「…知っていたのか」
「今の私なら、それなりに察しはつきます。どうやら私を後継者としたギリオンは、どこかで静かに死んだ。術の発動者が死んだからでしょうか、この瞳の管理者が私になった。私に自我の権利が戻った」
「……つまり今の貴方は、・だと?」
「厳密に言うなら・シヴェール。敬虔な信者である私はもういない、ただアラネアの頃からある願望を繋ぐシヴェールの継承者」
目元を隠していた布を解き、虹色に燦めく瞳が振り向いた。
「私はここを発ちます。世界を見て、肉体の限界までに次の継承者を探す旅に」
「……」
「…ただ最後に。一つだけ、お願いしたいことがあるのです」
こつり、と足音を立てて一歩近付く。シスターの笑みは苦笑のような、どこか複雑な感情が混ざっていた。
「願い、とは」
「私を殺してください」
「――…」
息を飲む。あの美しい涙の持ち主の微笑みで、シスターは残酷なことを口走った。すうと目を細め、感情を押し隠したまま首を傾げる。
「何故、ですか」
「私は魔女に負けました。私は魔女に屈したのです。ならば私は魔女の命令に従う他ありません。身を隠し生き永らえる他ありません。けれど”私”は、嫌なんです」
「……」
「今までの後継者が、どうやってこの感情と折り合いを付けてきたのかわかりません。私が・シヴェールになる前に抱いた心を、どうしても消すことが出来ない」
困ったものです、とシスターは心底参ったようにはにかんだ。
「…貴女が、どんな感情を抱いたと」
「恥ずかしいので秘密です。私が勝手に感じて、勝手に思ったものですから」
両手を組んで、シロウに対して祈るように瞼を下ろした。
「殺し方は問いません。”私”を殺してほしいのです。私は次の継承者を見つけるまで死ねませんから」
「可笑しな言葉だ」
「ええ、そうかもしれません。それでも旅に出る前に、この未練を断ち切って欲しい」
ため息を付いて、懐から黒鍵を一つ取り出した。祈る少女に近づき、その背後に回る。背にかかるその長い髪に触れた。まだ毛先には、濡れるような美しい黒が残っている。毛束を持ち上げ、―静かに口付けを落とすと、黒鍵の刃で黒髪を切り落とした。
「…さようなら」
手の中に残る黒髪を眺めたままのシロウに小さく小さく呟いた。