Joy and sorrow are today and tomorrow.



「一緒に、カナンの地にいかないか」

 手の痛みが収まる頃、――――は私にそう言った。
 静かな湖畔の上に建てられた彼の家の中、食事の後、ラルさんもエルと一緒に眠りについていて、私と――――だけ。部屋に戻ろうとする私を呼び止めて、美味しい紅茶を出してしばらく雑談をして。唐突に表情を変え、彼は。

「………あの子と、守れなかった約束を。今からでも、叶えたいんだ」

 私の手を握って、悲痛にそう零す、けれど。…私ははいともいいえとも言えなかった。

「カナンの道標は、実はもう揃っているんだ。2年前、あの子と一緒に集めたから」
「……、」
「だから、一緒に行こう。カナンの地に」

 するりと手を撫ぜ、力を込める。
 ―首を振ることが出来なかった。一緒に行けないのだと、―この世界にカナンの地は存在しないのだと、言うことが出来なかった。だって、――――が。――――が私に、お願い事をするだなんて。想像したこともなかったから。
 曖昧に笑みを返せば、――――は眉を下げて同じように笑んだ。今日はもう眠って、明日から準備をしようと一人口にして、――――は私を部屋まで送る。別れ際の彼は、私の知っている彼に本当にそっくりで。


 ――――が一緒に旅をした大切な"あの子"は、彼が骸殻能力の代償のことを知らず、その上で時計との契約がその少女越しだったことが災いして、時歪の因子と化していずこかへ消えたという。約束を守れなかったのだと、彼は何度もそう呟いていた。
 マクスバード港にて、カナンの道標を大事そうに取り出し並べていく彼の背を見下ろす。知っている姿よりも大きくて、大きくて。
 並べられた道標から離れ、―――――は私に視線を向ける。「証の歌を歌ってくれないか」首を傾げれば、それで道は開かれるのだと。すべてを否定しそうになる気持ちを抑えて、音律を口ずさむ。…すると。

「――…貴様たちは」
「クロノス…!」
「……」

 空へ現れたのは、見覚えのある人ならざる者―精霊クロノス。クロノスは私達を見下ろすと、訝しげに眉を顰めて辺りを一瞥し一つ息をついた。

「クロノス。もう一度だ、もう一度、カナンの地へ橋を―」
「それは出来ない、と言っただろう」
「何故!道標は示した、クルスニクの鍵も今回はきちんと―」
「逃げ惑う者よ。答えを提示してやらないのは、優しさでもなんでもないぞ」

 冷めた瞳で私を見て、それから姿を消した。クロノスの言葉は、私の胸を深く抉る。いつの間にか握られていた手に力が籠もっていて、ゆっくりと彼へ視線を向ける。怒るでも悲しむでもなく呆然としている――――は、小さく声を漏らした。

「…俺は、あの時…俺を守って消えた君が、きっと…分史世界に逃げ込んでいて、それで今、戻ってきたのだと…思っていた」
「…    、」
「……でもアレから10年以上経っている。ありえないことは、わかってたよ。…わかっていた。分史世界から正史世界に連れてくることは出来ても、分史世界から正史世界に侵入することは不可能だ。例え、クルスニクの鍵でも」

 握られる手がみるみる強くなっていく。

「ああ、忘れていた―…いや、気付かないフリをしていた。…ここが、分史世界だと言うことを」
「ルドガー…っ」
はそれを知っていても、俺のために言わないでついて来てくれたんだな」

 謝らないで、と彼は―ルドガーは、手を離して私を抱き寄せる。離れようとしても逃れることは出来ず、掴まれた肩に爪が食い込んでいた。

、俺と一緒にカナンの地に行こう。俺と、と、エルがいれば正史世界にだって行ける。俺さえ片付ければ、必ずたどり着ける」
「ルドガー、」
「少し時間がかかるな。どうやって正史世界の俺を殺すか、考えないといけない」
「ルドガーっ!」

 声を張り上げれば、彼はきょとん、として首を傾げる。濁りのない澄み切った瞳で私を見て、突然どうしたのだとばかりに。

「…ああ、お腹が減ったよね。一度帰ろう。それからまた、作戦会議をしなきゃな」

 うっそりと微笑む彼はもう、ルドガーではなかった。





人間万事塞翁が馬
 






「お前は…」
「……」

 クランスピア社内、廊下。分史世界破壊任務を終えたリドウは、向こう側からやってくる少女に気づくと足を止めた。彼女もこちらに気付き会釈だけして素通りしようとするが、横顔を追えばその突き刺さる視線が痛かったのか、「何か…?」と半歩振り返り立ち止まった。

「いやぁ?君がビズリー社長の秘蔵っ子サマかと思ってね」
「…私と社長には、特に大した縁はありませんよ」
「ふぅん。ならどうして、そこまでの若さで俺やユリウスに並ぶ程任務を請け負えているのかと気になって」
「それは私がクルスニクの鍵だから。現クルスニクの鍵ー社長の奥様に何かあった時のために、いつでもその任務をこなせられるようにそうしているだけ」

 なるほどねと息を漏らし背を向ける。

「ユリウスと何か画策しているみたいだが、まぁ大事なクルスニクの鍵だ。特に突っ込まずにいておいてやるよ」
「…それはどうも、リドウさん」
「俺と君が同じ任務に就くことはないだろうが、まぁお手柔らかにな」

 ひらひらと手を振って廊下を進む。あのいけ好かないユリウスと懇意にしている人間とよろしくするつもりはないが、彼女はクルスニクの鍵。今後いざ道標の回収任務となれば彼女が駆り出されるのは必至だろう。悪い印象はないほうがいい。

 あのビズリー社長の秘蔵っ子ー・フィロ・ブラックモア。十にも満たないうちから分史世界対策エージェントとして任についていたあの少女が、わずか十四歳の若さで黒匣の暴発事故で子供を庇って死んだという。

「見知らぬガキを守って死ぬなんて大層なお人好しだ」

 話しかけてもユリウスは目の前の書類を検めているだけで言葉を返す様子のない男に舌打ちする。

「お前と一緒に何かしてると思っていたが、俺の勘違いだったか?」
「いつものことだろう」

 無視を決め込んでいたくせに、俺を馬鹿にすることは忘れない。つくづく気に食わない男だ。

「は、まあいいさ。これであの女の分史世界破壊数は停止。あとは俺とお前だけだ」
「そんなものを争うつもりはない」

 暇なやつだと言わんばかりのため息に奥歯を噛みしめ、再び盛大な舌打ちをして部屋を後にする。
 すれ違う社員に、あの目立つ淡色の髪はいない。すれ違う度ー日に日に憂いを帯びていく少女。リドウよりも幼い歳で分史世界をー数多の命を破壊する任務。

「子供にゃ、無理な仕事だよ…」


 
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