夢追いの獣

金カム/杉元佐一
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 好い人がいた。優しくて、たくましくて。関東から奉公に来た身分の私にはもったいない、良家のひと。
 その夜は月がとても綺麗だった。日中の仕事が終わってからの真夜中、密かな逢瀬。静かな声で世間話を交わしたあと、別れを惜しむ口づけをして。

「何をしてらっしゃるの…?」

 いい着物を着た女の人と、付き従う数名の男。彼女を見た瞬間、彼は血相を変えて私を突き飛ばすように離れた。うつむく彼女に歩み寄り、「違うんだ」「これはあいつが」などと取り繕おうとしている。

「もういいです。婚約の話はなかったことに」
「待ってくれ!違う!こいつが無理やり…!待って!」
「ついてこないでくださいまし!」

 走り去る女性を追う彼らを呆然と見送る。大きな月が雲に隠れて視界が暗くなった時、すとんと私の胸の内に理解が及ぶ。
 ああ、私は弄ばれていたのだ、と。
 妙にすっきりとした面持ちで、私は厄介になっている屋敷へと帰った。
 屋敷の主人はもう寝ている。音を立てぬよう静かに自分に充てがわれた部屋へ入ると、出かける前に準備していた布団に潜り、暗闇の中瞼を下ろした。

 もぞもぞと音が聞こえる。すらりと刃物を研ぐような音。ふうふうと荒い吐息。

「―死ねぇ!」
「っ―…!」

 どずり、と頬を切り裂いて枕に刃が突き立てられた。誰だ、と思うよりも先に、その声で彼だと気づく。畳にまで達した柳刃包丁をぐりぐりと引き抜きながら、彼は歯を食いしばり私を睨みつけていた。

「お前のせいで!お前のせいで僕は!」
「やめて、」

 痛みに顔をしかめる間もなく、男は私に馬乗りになって再び包丁を振り上げる。
 私は、―私は。







 叫び声が聞こえて、うつらとしていたまぶたを上げる。真っ暗闇のなかであたりを見回して、温かい毛皮に気づいた。その中のふたつの―よっつの目に気付くと口をつぐむ。こちらを、見てはいる、が、それは襲ってくる様子はない。どうしたものかと息を呑めば、同時に、がさがさごそごそと入り口に敷き詰められた草を踏む足音が近づいてきて。大きく息を吸い込む声がして、振り返ろうとした時―なにかに、押しつぶされた。
 ダァン、と銃弾と思しきものが暗闇の中を疾走って、そして―おおきいほうのふたつの目の持ち主が、のっそり起き上がる。私を押しつぶしたなにかがするりと私の口を塞ぐ。ひとの手だ。
 暗闇の外から悲鳴と悲鳴と銃声が聞こえる。3、4人はいるだろうか。

「………静かになった」

 ぼそり、誰かが呟く。そうして私に意識を向ける余裕ができたのか、「やわらかい」と口にしてからぱっと身を離した。

「……。えっと…ご、ごめんねぇ…?」
「いいえ。なんともありません」

 乱れた衣服を整えていると、膝に何かが身を擦った。手を伸ばせば温かい毛皮が動いている。優しく頭を撫でて抱き上げる。「外、出ようか」気まずげに誰かがこぼして、私の腕を引いた。



 あなぐらの外は、真っ白の雪が血に染まっていた。ぼんやりとそれを眺めていれば、誰か―男が、大きな手のひらで今度は目を覆った。女の子が見るもんじゃない、と囁いて。
 そのまま目元を隠されたままゆるく肩を掴まれて移動する。さくさくと雪を踏みしめる素足は、そろそろ感覚がない。

「そろそろいいかな。君、名前は?この雪山でその薄着寒いでしょ、いろいろ臭いかもしれないけどとりあえずこれ上に着て、…というか素足!?真っ赤じゃないの!ごめんね気づかなくて!」

 男は私に上着を被せたあと、慌てた様子で首巻きをほどき「ごめんね」と再度誤りながら私を抱き上げた。感覚がなくなった足にぐるぐるとそれを巻き付けて足を強く抱き込んだ。
 ひとりで話を進める男に、どこか見覚えがある。この声に、どこか聞き覚えがある。

「あ、俺の名前は―」
「…佐一さん?」
「へ」

 ゆっくり顔を上げて私をまじまじと見上げる。目を細めて、開いて、唇を尖らせたあと、ぱっと明るい表情になった。

「…ちゃん!うそちゃん!?」
「うん…久しぶり、佐一さん」

 笑顔になった彼は、しかしすぐにきりりと眉根を寄せて顔をしかめた。器用に私を抱き上げる手を片方離して、私の頬に指を滑らせる。小さな音とともに頬にこびりついた氷が剥がれた。…切りつけられたままになっていた傷口から流れた血が、この寒さで凍りついていたのだろう。この傷どうしたの、と低い声で告げる佐一さんは少し怖い。

「…いろいろあって」
「そもそもどうしてこんなところにいたんだ。ちゃんは親戚の家に奉公に出ていたはずだろ」
「…いろいろ、あったんだよ」
「こんな傷を作るいろいろって、……」

 なにかいいたげに口をつぐんで、佐一さんはうつむき帽子を目深にかぶる。ぼう、と私が抱いていた子熊が鳴き声を上げると「その子見えないように隠しといて」とだけこぼして、雪を踏みしめ歩き出した。
 格好からして戦争に行っていただろうにこんなところにいるのが不思議なのは佐一さんもだ。気になったけれど自身のことを突かれても藪蛇なので黙り込んで、じんわりと熱が戻ってきた両足を擦り合わせた。







 俺が家を焼いて村を出るまで、俺と、梅ちゃんと、寅次と、ちゃんとでよく遊んでいた。ちゃんは梅ちゃんの妹で、気丈な梅ちゃんとは違いいつも背に隠れているような子だったのだが、一度梅ちゃんの式を見に村に戻った時、寅次から北海道の親戚の元へ奉公へ出たことを聞いた。幼くして子供を亡くした親戚のもとへ、商いの手伝いのためらしい。
 そのちゃんと偶然にも再会したのは、なんと北海道の雪山―しかもヒグマが冬眠しているあなぐらの中だ。最初は暗かった上に外に出てからも格好が気になってよく見ていなかったからすぐに分からなかったけれど、顔を見て思い出した。寒いこともあってずいぶん弱っていて顔色も悪く、何より頬に走ったあかい傷が衝撃的で。昔も確かに明るい性格ではなかったけど、こんなにも無表情ということはかったのに。
 アシリパさんの村に戻って、アシリパさんのおばあちゃんやアイヌの村人たちに着替えや凍傷をおこしかけてた処置をしてもらって。ちゃんに事情を聞いても、うつむいて黙り込むばかりで何も話してはくれなかった。

ちゃん、とりあえず町に戻ろう。俺も一緒に行くから」
「…いいえ、私は町に戻るつもりはありません」
「なんで?…その傷をつけた人がまた襲ってくるかもしれないっていうなら、俺がとっちめてやるからさ」

 皆が寝静まった後、家を出ようとした俺は、貸してもらった寝床にも入らず火の落ちた囲炉裏のそばで膝を抱えていたちゃんを見つけた。結局どういう事情で山にいたのかはわからず終いだが、きっと奉公先の親戚たちも心配していることだろう。そう言えばちゃんは更に表情を暗くしてしまった。

「ふふ。でも本当に大丈夫だよ。そのうちこの村からも出ていきます」
「そりゃあさっきの今ですぐに山を降りるのは大変だけど」
「そうじゃないよ。町に戻るわけにはいかないだけ」

 いってらっしゃい、と手を振って、ちゃんはゆっくり立ち上がり寝床に転がる。目をつぶって、もうこちらの話を聞くつもりはないらしい。

「…俺、もうここに戻ってくるかはわからないけど。また会ったら、よろしくね」

 そう言い残して、俺はアシリパさんを置いてこの村を出た。
 一人で町に降り刺青人皮の情報を探るため歩いていると、壁の張り紙に気付く。一枚剥ぎ取って内容を読み取れば、どこぞの商家の息子が惨殺され、その犯人を探しているというものだったが、特に興味がなく丸めて捨てた。

×


 もうここに戻ってくるかはわからない、なんて言っておきながら、俺はいろいろあって再びアシリパさんの村へと舞い戻ってきた。ツレが幾名か増えているが、村のアイヌたちは暖かく受け入れてくれた。

「……ちゃんは?もう村を出たのか?」

 増えたうちの一人である谷垣の応急処置を終え、ふと思い出して声にすれば、アシリパさんやそのおばあちゃん、他の村人も互いに目を合わせてから首を振った。

「じゃあその子は、この寒い中人知れず村を出たってこと?」
は雪山に慣れているのか?」
「いや…今までは町で暮らしていたはずだから」

 肩をすくめて言えば、アシリパさんは少し考えた後「探しに行ったほうがいいかもしれない」と神妙な顔で告げるので、まさかと息を呑むものの彼女の言う通りだ。町には戻れないと言っていたちゃんが村を出ても行き先はないのではないだろうか。おばあちゃんによれば今日の夕方頃まではいたらしいので、まだそれほど遠くには行ってないはずだ。
 アシリパさんと白石とでちゃんの痕跡を探しながら山を歩く。途中からそれらしい足跡が見つかって、まだ見つかってはいないのにほっと胸をなでおろした。足跡は町ではなく山奥へ向かっており、どうにも目的がしっかりしない。

はどこへ行こうとしているんだろう。杉元が最初見つけた時もヒグマの巣穴にいたって言うし、格好も着の身着のままだった。まさかは…」
「そんな!…ちゃんが…そんなこと思うはずない」

 アシリパさんが言外に言おうとしたことに首を振る。

「…まさかちゃん、奉公先でなにかひどいことされたのかな。顔の傷も、それで」
ちゃんって子、奉公に来てたの?」

 三人の中でちゃんの顔を知らない白石に説明すれば、頭をひねったあとぽんと手を叩いた。

「数日前から手配書が出ててな。どこぞの商家の坊っちゃんが殺されたってやつなんだが」
「ああ、それ俺も見た」
「噂では、その犯人は女らしい。死体が見つかった家に住んでた奉公人が行方不明らしくって、殺された男といい仲だったらしいんだが、どうにもその男、婚約者がいたらしくてなぁ。浮気がバレて逆上した男か婚約者が行方不明の奉公人がやったんじゃないかって騒いでたよ」

 ざわり、と背筋に悪寒が走る。まさかそんな、ちゃんがそんなことをするはずがない。…けれど白石の情報を信じるのなら、ちゃんは疑われても仕方がない立場にいる。奥歯を噛み締めながら、見つからない痕跡に立ち止まっていた二人を置いて走り出した。






 名前を呼びながらちゃんを探す。自分の声ばかりが響いて、動物の声も聞こえない。冬眠を逃したヒグマがそこまで大量にいるとも思いたくないが、どこで勇猛な獣に遭遇するかもわからない。慣れているアシリパさんや俺はともかく、この寒い中で彼女がどうこうできるとは思えない。
 あたりを見回しながら森を歩いていると、何かに躓き盛大にこけた。足元が雪だから怪我はしなかったものの、何事かと見てみれば―そこにいたのは紛れもなくちゃんで。なんでこんな雪の中で寝ているのか、どうして逃げるように村を立ち去ったのか―聞きたいことは山ほどあったが、とにかく冷えてるだろうから暖めなくては。上着もマフラーも全部ちゃんに着せて、眠っているのか気を失っているのか、意識のない彼女を揺り起こす。体を擦って温めていれば、しばらくしてゆっくりとまぶたが持ち上がった。

ちゃん!なんでまたこんなところで…!」
「…あつ、くて」
「は?あつい?いやいやこんな極寒であついはないでしょ」

 そういいながら上着を脱ごうとするのを抱きしめながら制止し沈黙する。凍死になりかけていたんだろう、震えてすらいない体をぽんぽんと叩いた。

「なんで村を出て町にも戻らず山に…。死のうとでもしたのかよ」
「それは……」
「…町に、手配書が貼り出されてた。商家の息子を殺した女を探してるって。…ちゃんなの?」

 ゆるりと顔を上げて、ちゃんは俺を見てから小さく頷く。

「…寝ていたら…包丁で殺されかけて」
「それなら正当防衛だろ。ちゃんと事情を話せば捕まらない、町に行こう」
「ううん、駄目なの。何度も何度も刺したから」

 過剰防衛になるのだと零して、再びうつむいた。それからぽつりぽつりと話し出す。
 俺が家を焼いた後に奉公に出たこと。その先で件の男と出会い恋仲になったこと。その男に婚約者がおり、偶然見つかってしまって男に捨てられたこと。男も婚約破棄となり逆恨みしてちゃんを殺そうとしたこと。身を守るためとは言え男を殺し、恨みを込めて死んだ後も何度も包丁を突き立てたこと。

「私、きっと男運というものがないのだわ。今も昔も、好きな人には好きな人がいるの」
「昔…」
「佐一兄にはいつも梅姉がいて、私がどれだけ焦がれてもちっとも見てもらえないの」

 …ちゃんはずっと、可愛い妹で。一瞬彼女の言葉の意味がわからなかった。こちらも見ないまま、ちゃんは雪の中に手を沈めた。…何かを探しているのだろうか。

「私ね。あの人を殺した時、とても気持ちよかったの」
「は…?」
「最初からこうすればよかったんだわ。私のものにならないのなら、殺してしまえばいい」
ちゃ、……っあ?」

 じくり、と腹に鋭い痛みが走る。俺を押し倒したちゃんの手には包丁が握られていて、とっさに掴んでやめさせようとするのも構わず更に深く埋めようとしていた。

「アシリパさんから、佐一兄がアイヌの金塊を探してることを聞きました。それほどのお金を欲しがるなんて、故郷の梅姉の目を治すためでしょう。私と会ったのも、私に会いに来たわけじゃない」
「…それは…」
「でももういい。もういい、なんでも…。このまま佐一兄を殺して、私も死ぬ。山の餌になるの」

 冗談じゃない。こんなところで死ぬわけにはいかないし、ちゃんを死なせるわけにもいかない。
 ぼろぼろと涙を零す彼女の頬を撫でて拭う。
 確かに梅ちゃんのことは今でも大事なひとだ。でもそれは幼馴染だからで、そして寅次の最期の頼みだから。…未練がないかと言われれば嘘になる。けど梅ちゃんは寅次と結婚した。俺では梅ちゃんを幸せにしてやることはできなかった。…あの戦争で人を殺しまくって、殺しまくって、生き延びてしまった俺では。それでも生き残ってしまったのなら、できることをしてやりたいのだ。

「だから俺が、大切な幼馴染たちのために、金塊を探そうとしてるんだ。求めてる金額は、ただ真面目に働いたんじゃ手に入れるのに何年もかかる」
「……」
「大切な幼馴染は、ちゃんもだよ。…ちゃんは、俺のことすぐ気付いてくれただろ、アレ本当に嬉しかったんだ。ちゃんのためなら、死んだっていいと思うよ。でもごめん、今はまだ死ぬわけにはいかない」

 包丁に込められた力が緩む。ちゃんの手を放させてから起き上がると、自分で包丁を引き抜いた。痛みはあるが耐えられないものではない。

「まずは寅次の頼みを…金塊を見つけて金を手に入れて、梅ちゃんの目を治してやりたい。そうしたら、俺を殺してもいいよ」

 手を掴んで顔を近づけてそう言えば、ちゃんはあまり良くなかった顔色をさらに青くさせた。

「怖いだろ。人を殺すのって。ちゃんはさ、自分が襲われて、反抗してそいつを殺してしまって、その正当性を探してるだけなんだよ。君は、人を殺して気持ちいいなんて、そんな事思う子じゃないだろ」
「私、は。…でもっ」
「大丈夫だよ、俺だって探しものが探しものだし軍人相手にいろいろやらかしたからな。どうせもうまともな暮らしには戻れないんだ。目的が済んだら、一緒に死のう。だからもうちょっと待ってくれる?」

 言葉を失いながら頷く―多分実際はうつむいただけ―ちゃんに笑顔を向けて、よっこらせとばかりに抱き上げ立ち上がる。何も言わずにアシリパさんたちから離れたから心配しているだろう、早く戻らなければ。

「…ごめんなさい」
「ん?」
「…おなか…」
「ああ平気平気。不死身の杉元って呼ばれるくらい、怪我には慣れっこだし治りも早いんだ。気にしなくていいよ、ちゃんも怖かったよね」

 首周りにすがりつきながら黙り込んだ彼女は、きっと泣いている。けれど村に着く頃には眠ってしまったけれど、涙の跡を見て先に村に戻っていたらしいアシリパさんには怒られてしまった。俺の腹の傷に気づくと何があったのかと心配そうにしていたけれど、これは俺とちゃんの秘密だ。ただ白石の予想通り件の事件の犯人が彼女であり、あくまでも正当防衛だということを説明した上でアシリパさんにはちゃんも金塊を探す旅に同行させることを頼んだ。「このまま一人にしたらまた薄着で雪山に行ってしまうかもしれないからな」監視のためだ、とアシリパさんは言うけれど、同じ女の子の友達が出来て嬉しそうだ。

「なぁ杉元…本当に大丈夫なのか?」
「どういう意味だよ」
「だって人ひとり殺してるんだろ?」
「正当防衛だって言っただろ。…それに、俺のほうがもっとたくさん殺してるぞ。何か問題あるか?」

 睨めば白石は肩をすくませ、誤魔化し笑いながら離れていった。
 ちゃんの凍死しかけるほど下がっていた体温が少しずつ戻っている。頬の生々しい傷を撫でると顔を歪ませて唸った。自分の顔の傷をなぞると奇妙な感覚がして指を離した。

「…生きてるんだったら、俺が殺してやれたのにな」





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