07



 勢い良く起き上がる。荒い呼吸をどうにか整え辺りを見れば、馬宿の店主が「朝まで寝るって言ってなかった?」と驚いていた。寝汗も酷い、どこか川に入って頭を冷やそう。店主に言えば「戻ってきてまた寝るんなら空けとくよ」とありがたいことを言ってくれたので好意に甘えながら宿を出た。

「リンク、早いね」
「……

 軒下で声をかけてきたのは、100年の眠りから覚めた僕を時々導いてくれるだった。困っている時にどこかの馬宿に寄ると話を聞いてくれて、何かを提案してくれる。過去の僕を知っているような素振りを見せるが何も語ってくれない、不思議な少女だ。いつも身体を覆う大きな外套を身に着けている。
 どうしたの、と首を傾げられて答えに悩む。そう言えば何故僕はこんなにも寝汗をかいているのか。あんなに目覚め悪く起きたのだろう。

「悪い夢でも見た?」
「夢…そうだ、何か夢を…多分、過去の記憶だ」
「―…そっか。何か思い出した?」

 聞かれて答えようとする―しかし夢の内容が思い出せない。

「だれかが…笑っていた。泣きそうな顔で…でもどんな顔だったか思い出せない。なんでそんな、悲しい顔をしていたのかもわからない」
「…その記憶は、リンクにとって大した意味を持っていないから。なんの役にも立たないから、思い出さなくても大丈夫。今のリンクに必要なのは災厄とゼルダ姫に関する記憶だけ。それがあれば、かつての貴方に戻れるよ」

 いつも、―…いつもはそうやって、この朧気な記憶のことを話すと思い出す必要はないと微笑む。そうなのだろうか。本当に?こうして何度も何度も何度も夢に見るということは、きっと僕にとって重要な記憶なんじゃないだろうか。そう言えば、は悲しげに眉尻を垂らして困った顔で笑った。

「…そう、かもしれないね。けど、リンクには申し訳ないけど、今はそれどころじゃない。いつ厄災が解き放たれるかわからない以上は、一刻も早く元の力を取り戻さないと。…思い出すのなら、その後でもいいでしょう?」
「だ、けど…ずっと胸に引っかかってるんだ。あの子を、守らないと―」
「守るのはその子じゃない。貴方が守るのはこの国と、この国の象徴であるゼルダ姫だけ」

 語気を強めては言った。驚いて目を瞬かせれば、ハッとして俯き「ごめんなさい」と呟く。

「…本当に、ごめんなさい。貴方には自由があるはずなのに…」
「気にしないで。わからないけど、の言うとおり国を…ゼルダを守るのは僕の役目だ。 …僕の方こそ、変なことを言ってごめん」

 俯いたまま首を振って黙り込む。虫や動物の鳴き声ばかりがやけに耳についた。
 そっとの頬に触れて、顔を上げさせた。泣いてはいなかった。けれど今にも泣きそうな―というより泣いているようにも見える。涙が枯れ果てたような、そんな空虚。の肌はひどく冷たくて、まるで生きていないようだった。

「…はどうして、僕に力を貸してくれるの?」
「私は他に何も出来ないから」

 振られた話に、はそう答える。…前にも同じようなことを聞いて、同じような答えを返された覚えがある。

「大切な人…家族とかは、どうしてるの?」
「…もうずっと昔にね、捨てられたの」
「えっ?」
「物心ついた頃からこういう感じで…気味悪がられて。オルディン火山に」
「それでオルディン火山の秘湯に詳しいんだ」
「ふふ、そうね。オルディン火山の温泉はとても熱くて気持ちいい。私は体温が低いから」
「普通はすぐに気持ち悪くならない?それ」
「ううん。私、熱いのが好きなのかも。冷たい手がね、じんわりと…暖かく…なって」

 自分の手のひらを見つめて、何かを思い出したように語尾が小さくなっていく。わずかに震える彼女の小さな手をそっと握りしめた。冷たくて、柔らかくて、武器を握ったことのないきれいな手だ。顔を覗き込めば、顔を赤らめて両の手を見下ろしている。男に慣れていないのだろうか。
 …男と思われているか謎だけど。何せ回生の祠のある台地を出てすぐの初対面の時、僕は下着一つで走り回っていた。台地で幽霊となって待っていたハイラル王は特に何も言わなかったし、他の誰にも会わなかったから衣服のことなんて考えていなかった。眠りから覚めた場所には一応服が用意されていたが、百年前に置かれたのだろう古びたそれは着る気になれなかったし。というか解放感に気持ちよささえ感じていたほどだ。馬宿で「随分元気な格好ですね」と宿主に失笑しながら言われた直後、顔を真っ赤にしたにハイリアの服とズボンを渡された。それが彼女との出会いだ。…随分情けない出会いだな。もうちょっと何かなかったのか。
 がハッとして、慌てて手を放した。顔は赤いまま、視線を泳がせている。

「…だめ」
?」
「…だめ、なの。ごめん、なさい」
「なんで」

 なんでだめなのか。なんで謝るのか。─なんでそんなにも、悲しい顔をするのか。

「…私は、あなたと一緒には、いられない」
「……どうして」
「…もう夜が明ける。またね、リンク。無事でいて」

 立ち上がり、彼女は外套を翻して足早に去っていく。本当なら追いかけてもっと色んな話をしたいけれど、いつもぼんやりと見送ることしか出来ない。離れがたくて、惜しくて、寂しくて。
 けれど僕は眠りについて、また目覚めると、何故か彼女のことをさっぱり忘れてしまっていた。
 その後しばらく。休息ついでにウツシエのことを聞こうとカカリコ村に立ち寄った。インパに示してもらったウツシエの場所を訪ねたことで、過去の記憶も幾つか思い出すことが出来ている。
 それでもどうしても思い出せないのは、夢にだけ出てくるあの朧気な少女のことだけ。夢の中では鮮明だったはずなのに、目覚めると全て忘れてしまう。気になって仕方ない。思い出さなくていい、と誰かが言うけれど、思い出さなくてはいけないと、まるでもう一人の―過去の自分が、そう叫んでいる。

「悲しげに笑う少女…とな。そんな端的な説明で何か知っていることはないかと聞かれてものぉ…」
「無茶振りなのはわかってる。でも、目覚めると忘れちゃうんだ。どうしても顔が思い出せない」

 インパは首をひねって考え込むが、しばらく待っても何か思いつく様子はない。

「百年前…、僕が誰か特定の子と仲良くしてたとか、逆に仲悪くしていたとか、何かないかな」
「ふむ…、しかし…これは禁忌じゃ。特に記憶を思い出していないお主には、まだ話すことは出来ぬ。全ての記憶を取り戻したらもう一度来るといい、その時にはきっと、そなたに話してやろう」

 やはり僕の知らない百年前にまだ何か重要なことがあるようだ。禁忌、とまでいうなら、まだ記憶に穴が空いている僕では受け入れられないことなんだろうか。悔しさを拳で握りつぶして、礼を言って村の宿屋に戻った。

§



 巫女が消えた、とハイラルは大騒ぎになった。俺が逃したのではと指を差されたが、そんなことをする理由はあっても手立てがない。人払いはしてもらったといっても牢の出入り口には牢番もプルアたちもいた。抜け道がある反対側には捕らえられたヒノックスがいるのでバレないようにそこをくぐり抜けるのは不可能だ。ミファーたちの弁護もあって疑いは晴れたが、何度か巫女捜索の捜査隊が組まれていた。厄災の復活がいつになるかわからないのにそんなところに人員を割いてどうするといいたかったが、にもう一度会って話さなければいけないのは俺もだ。時折手が空いた時に俺も各地で聞き込みをした。

「巫女様は一体どこへ行ってしまったんでしょうか。何の痕跡もなく、忽然と…」
「……」
「彼女が宮廷占術師を殺めたことも姿を消したことも、理由がないはずはありません」
「……宮廷占術師を殺したことで、いずれ確実にゼルダ様の力が目覚めると、言っていました。…あまり故人を疑いたくはありませんが、もしかしたら、あの宮廷占術師がなにか糸を引いていたのかも」

 俺のそんな言葉にゼルダは痛々しく顔を歪めた。あれからしばらく立つが、それでも彼女の力は目覚めていないのだから当然だろう。だからこそ、が消えた後俺が彼女の言葉を伝えても誰も信じなかったのだ。

「宮廷占術師は、ハイラルにとって有益な古代遺物を示しました。そんな人が、私の能力を封印していただなんて…考えたくもありません。私が未だ能力に目覚めないのは、私が未熟だからです」
「…でも俺は、の言葉を信じます。俺は…俺だけは、彼女を信じていないといけない」

 ゼルダは振り返り、目を細めて泣くのをこらえるように唇を噛み締めていた。「貴方は、」何かを口にしようとして、俯く。

「ええ。貴方は…信じてあげてください。きっと何かあると…私も、思っています」






08



 勢い良く起き上がる。今回はそれほど汗は出ていなかった。深く息をはいてもう一度ベッドに横たわった。名前だけ、また思い出せないけれど誰かについてゼルダと話している夢だった。その内容ももうあやふやだ。
 ちょうどいい時間だったようで、馬宿の店主は手を振って起こしてくれた。礼を言ってベッドから降り荷物を持って外へ出れば、が軒下に立っていた。いつもは夜ばかりに会うので、こんな明るくなった時間に見るのはなんだか新鮮だ。

は百年前のことをどれくらい知っているの?」
「…私は吟遊詩人みたいなもので、噂や伝承を伝えているだけ。あなたの助けになることが、私の使命だから」

 美しく微笑む姿に既視感を覚える。何処かで見た笑顔。今までの彼女との逢瀬でその笑顔は見ているが、そうではなく。彼女自身と対面したときではない誰かの笑顔。憂いを帯びた、悲しい笑顔。頭が痛んで顔を歪める。ズキズキと刺激しているのは、外傷ではない。
 の冷たい手が僕の手に触れ、ゆっくりと頭から引き剥がし、代わりに彼女の手が僕の頭に添えられた。「大丈夫?」問われ、頷く。痛みは治まった。ただ何か気持ち悪さが残っている。

「大丈夫そうならよかった。リンクは次、どこに行くの?」
「…準備も整ったし、そろそろハイラル城を目指すよ。ゼルダを、助けに行かなくちゃ」
「……そっか。じゃあ、えっと。その前に、一緒に時の神殿に行ってもらってもいい?―剣を洗礼しないと」

 背の退魔の剣を指し言われ、なるほどと納得して頷いた。ならば早いうちに出かけてしまおう。しかも洗礼に半日はかかるとのことなので、ハイラル城に攻め込むのは明日になりそうだ。は申し訳なさそうに謝っていた。一刻も早くゼルダを助けに行かなくてはいけないのは変わらない事実だが、準備を怠って返り討ちになったら取り返しがつかないので、少しでも厄災に勝つためにできることがあるのならやっておきたい。

「ありがとう、リンク。じゃあ、リンクはシーカーストーンで先に近くまで行っていて。私は後で行くから」
「わかった。…でも大丈夫?ここからだとそれなりに遠いと思うけど…」
「平気。なんとかなるよ」

 ぽん、と背を押され軒下から出る。影になったところで、はあの笑顔で手を振っていた。
 …彼女が日に当たっているところを、見たことがない。
 シーカーストーンの転移機能で時の神殿跡に到着すると、なんとはすでにそこで待っていた。どうやって、と思ったがは笑ってごまかすだけでその方法を教えてはくれない。―こんなことが前にもあったような気がするが、気のせいだと首を振る。
 剣を鞘から抜きに渡す。まだ刃こぼれはしていないが、どこか元気がないような感じがした。剣を持ち、俺が少し離れてからはそれを女神像へ掲げる。陽光が刃に反射し煌めいた。

「…─女神の目覚めは 大地 光射す─…眠りの巫女へと響く 願う声─…若人 ふたつの大いなる羽を光の塔に導く 彼の者の前に道はひらけ 詩の響きを聴く─」

 彼女の唇から綺麗な唄が溢れる。心が落ち着く温かい音色。舞うように緩やかな動きで剣を振り回すのを見て、ツキリと頭が痛くなる。何か引っかかる。何か―思い出しそうな。けれどズキズキと痛むだけで、何かを思い出すことはできなかった。
 その歌詞は、落ち着いて聞けば聞き取れるが、普通のハイリア語とはどこか違うようにも思えた。普段の彼女の喋り方は決して訛っているわけではないので、特有のものかもしれない。
 目を離していた間に洗礼は終わったようで、は長い息を吐いていた。降ろしていた瞼を持ち上げ、髪と同じ色の瞳で剣を見やる。その頃には頭痛も治まっていて、すぐにへと歩み寄った。剣を受け取り裏表と確認すれば、たしかに力が漲っているようだった。

「ありがとう、
「ううん。私の役目だもの、お礼を言われることじゃないよ。…ゼルダ姫を、ハイラルを、お願いね」
「ああ、きっと。いや…必ず」

 ぎゅうと剣の柄を握りしめ、そして決心したかのように鞘にしまう。

「あの…、
「なぁに?」
「…厄災を、倒したら、また─会える、かな」

 踵を返した僕を沈黙のまま見送ろうとしたに、思うより先に飛び出た言葉をかける。すると彼女は、少しだけ驚いたように目を開いてから微笑んだ。

「…あなたが本当に、そう望んでいるのなら、きっと」
「また、君に会いたい」
「…………、──…」

 何かを言ったが、聞こえなかった。その唇は、気のせいよ、と、言っているように感じた。

§


 が殺した宮廷占術師が発掘させたガーディアンや神獣は、ものの見事に厄災ガノンに乗っ取られた。何が起きたのかは分からないが、今にもこの国が滅びそうになっていることは痛いほどよくわかる。きっと神獣に乗っていた英傑たちも、すでに命はないのだろう。彼らは決して弱くはないが、得意を封じられれば状況は変わる。
 逃げなくては。こんな局面になってしまってもゼルダ様の封印の力は目覚めなかった。彼女を責めるつもりはないが、やはりの言うとおり彼女の力は厄災を封印するのに必要不可欠だったのだろう。ならば彼女を生かさなくてはならない。自分の命を賭してでも彼女を生かし、いつかこの国を救うため、ゼルダ様には生きてもらわなければならない。
 火事場のなんとやら、今にも腰を抜かしそうなゼルダの手を引いて、押し迫るガーディアンをなぎ倒しすり抜けるように走った。どこへ行けば逃げ切れるかなどわからない。ただひたすらに、彼らに取り殺されないように走った。

「っ―あ、ああっ」

 何を思ったのか後ろを振り向いたらしいゼルダ様が声を引きつらせる。振りほどこうとするほど強く立ち止まった彼女を振り返れば、その向こうに誰かがいた。ガーディアンや厄災が立ち込めた城に向けて両手をかざし、眩しく輝く光でガーディアンを押しとどめる誰か。肩ほどの髪に、―姿を消した時そのままの白い巫女用精進服。息を呑んで目を見開いた。

…!?」
「……奴を殺しただけでは遅かった。封印の力を目覚めさせる妨害だけじゃなく、培われてしまったゼルダ様への不信は、私と同じように力を使えさせなくしてしまった」

 つぶやくように聞こえた言葉は、降りしきる雨のせいで聞き取りづらい。

「何のために力があるのか。それを考えれば…きっと今ならもう、すぐに封印の力は目覚めるはず。そして…リンク。……百年もあれば、きっと次のあなたが…また生まれる。その時に、懸けるしか…」
…!君も早く、逃げないと!」
「リンク。ゼルダ姫を…ハイラルを、守ってね」

 少しだけ振り向いて、やっぱり悲しげに微笑んだ。そんなの瞳を見ている内にまた『逃げなくては』と思い出し、まるで自分の神経系統に命令でもされたのようにゼルダの手を引っ張って走り出した。
 どれほど走っただろう、城はだいぶ小さくなった。それでもそれにまとわりつく厄災は、まだしっかりと見えるほど大きいものだった。後ろを気にするゼルダが足をもつらせ、雨で濡れた手は支えることも出来ず転倒してしまった。そのまま腰が抜けたように俯くゼルダは強く拳を握りしめていた。どうしてこんなことに、と震える声を漏らす。

「神獣が…ガーディアンが…私達を襲うなんて…。まさか厄災に…ガノンに奪われるなんて…ッ」

 彼女の言葉に、こんな時だと言うのにのあの時の行動の証拠にも成りえそうな事だと気付いた。古代の忘れ形見があると遺物を発掘させた宮廷占術師。その遺物がまるごと厄災に乗っ取られたのだ。こんな未来もあると預言出来たはず。あの占術師が厄災ガノンの手先だとすれば、それを黙って今の状況通りになるよう仕向けたとすれば―…。けれど今そんなことがわかっても何の意味もない。全て、…手遅れなのだ。

「っ私のせいです!封印の力に目覚められず…ガノンに立ち向かう筈の遺物たちまで奪われ…!私が…私が今までしてきた事は…何の役にも立たなかった…だから大切な人たちを!民を、仲間を、…御父様を…」

 死なせてしまった、とゼルダはその大きな目から涙を溢れさせた。初めて見る雫だ。そっと抱き寄せれば、俺の服を強く握り大声を上げて泣き始めた。



 全てのウツシエを見て、記憶を思い出した。今すぐ厄災を振り払わなければいけないのに、いてもたってもいられなくてハイラル城を飛び出しカカリコ村へと向かった。急いでいるのに、シーカーストーンの機能を使えば一瞬で近い祠へと転移出来るのに馬を使ってしまった。相当慌てていたんだろう。
 驚いた様子のインパに事情を話せば、決心した顔で最後のウツシエのことを教えてくれた。インパの家に飾られている背景画。今までも視界にいれたことのあるそれを見て、すぐに思い出した。俺が意識を失う直前に、ゼルダが封印の力を目覚めさせ迫りくるガーディアンを退けた事。

「……あの子の、名前は?」
「……リンク」
「何度も夢の中に出て来る、夢の中の俺は何度もその名を口にしているのに思い出せない。顔も思い出せない!」
「リンク。…全てはゼルダ様が知っておる。これは本当のことじゃ。お主が何故彼女の事だけを思い出せないのか…それはワシにもわからん」

 苦しげに顔を顰めてインパは俺の背を押す。拳を握りしめ、再びハイラル城へと向かった。






09



「私を、覚えていますか?」

 もちろん、と微笑み返す。百年前のあの時、記憶の最後で泣き腫らしていた彼女は、涙を浮かべながらも嬉しそうに笑った。けれど今の俺には、それよりも気になる事があって。ゼルダ様にもそれがわかったのか、少しだけ表情を曇らせた。

「ゼルダ様のことも、インパのことも、プルアのことも、国王のことも、英傑たちのことも…俺が百年の眠りにつくまでのことはすべて思い出しました。けどあと一人だけ、あの子のことだけが思い出せない」
「…巫女様の、こと」
「何度も夢に出てきてるのに、顔も名前も忘れてしまう。思い出さないといけない、のに」

 ゼルダ様から渡された光の弓矢を握りしめ歯噛みする。夢で見た映像を思い浮かべることが出来ても、誰かが口にする彼女の名前と、視界にはいる彼女の姿には荒いノイズが走る。眠っていた時は、たしかにクリアに見えていた筈なのに。

「封印の力に目覚めることが出来た今の私なら、巫女様があなたに施した呪詛を解くことは可能です。ですがそれは、巫女様は望んでいない」
「……」
「それに、…─巫女様はずっと、あなたの事を想ってる。巫女様の呪詛のせいで貴方はそれと認識することが出来ないけれど、貴方の想いが呪詛に打ち勝てば、きっと思い出す事が出来ます」

 思い出せないのなら、それは思い出さなくていいということなのです。
 ゼルダ様は祈りを捧げるように俯きながら静かにそう零した。思い出さなくてもいい、だなんて。そんな言い方ひどいじゃないか。こんなにも焦がれているのに。ひどいことを言った。悲しませてしまった。一人きりにしてしまった。泣かせてしまった。無理をさせてしまった。今すぐにこの手に抱き寄せて、もう大丈夫だと安心させてやりたいのに。
 それが誰なのか、どうしてそう思うのかが、すっぽりと欠落していた。
 ―そう言えば、前にもそんなようなことを俺に言ってきた人がいなかっただろうか。目の前にいるゼルダよりももっと悲痛な顔で、「思い出さなくていいことだ」と。それを言ったのは…誰だっただろう。
 そっとゼルダを見上げる。ゼルダよりも背は低かった。こんなに眩しい髪色ではなかった。もっと憂いげに微笑んでいた。
 暗い夜。あるいは太陽が登り始めた朝焼けの中、軒下の影の中でしか会ったことがないあの子。

『…ゼルダ姫を、ハイラルを、お願いね』

 滲んだ映像でも、その声をはっきりとおぼえていた。

「……

 認識するよりも先に口から名が落ちた。同時にぽろりと涙が伝う。ゼルダ様は嬉しそうに笑って、何故か俺よりも泣いている。

「時の神殿跡へ。きっとそこに、彼女はいます」
『…あなたが本当に、そう望んでいるのなら、きっと』

 考えるよりも早く、俺はゼルダに一礼だけして走り出した。

§


 始まりの大地。時の神殿の奥、その上。目覚めてから、ハイラル王に勅令を賜ったあの場所。パラセールがはいっていたのを取り出してから空いたままの宝箱はまた蓋が閉まっていた。ハイラルを一望できる場所に、彼女は今まで頑なに脱がなかった外套を取り去ってそこに腰掛けていた。こちらに気付いているかは分からないが、退魔の剣の洗礼をしてくれた時のあの唄を歌っていた。

「若人 ふたつの大いなる羽を光の塔に導く 彼の者の前に道はひらけ 詩の響きを聴く―…」
「…
「……来てほしくないって言いながら、本当は少し来てほしかった。リンク、ハイラルを救ってくれてありがとう」

 少し俯いて、それでも振り向かないままは応えた。一歩近付き声をかけようと口を開いた。

「俺、思い出したんだ。ハイラルのことも、ゼルダ様のことも…の、ことも。…あの宮廷占術師は、今思えば確かに…ガノンの手先だったんじゃないかと、俺も思う。
 ずっとずっと…怖かったはずなのに、ハイラルのために…俺達のために、は力を尽くしてくれた」

 の後ろまで近付くと、しゃがんでその背に手を伸ばす。―が、その背に触れることは出来なかった。空を掴むようにの身体をすり抜けたのだ。俺はそれに驚くこともなく、悲しげに目を伏せた。
 記憶を思い出してここへ来るまでたくさんの事を考えていた。いつも明け方までしか会えなかったこと、普通なら時間のかかる距離でも自分より早く到着していたこと。―やはり魂だけの存在になっていた。ハイラル王のように。
 伸ばしていた手を引いて、ぎゅうと拳を握る。悔しさとやるせなさを我慢しなくてはいけない。

「…いつから?あの牢で姿を消したあの時、から…?」
「…あの占術師に、私の肉体は殺されたの」

 退魔の剣が守ってくれた、という言葉に、返事をするように剣は瞬いた。
 の肉体は殺されたが、退魔の剣を手にしていたお陰でその魂が霧散することなく、無事ガノンの手先であったあの宮廷占術師を倒すことが出来たのだと語る。剣を奮える力を持たないは、剣の精霊と結託してそれを果たしたということか。

「……言って、くれれば…」
「私は、そんな頼みごとが出来るほど、あなたと親しく出来なかった」

 息が詰まる。俺がいつかに彼女へ突きつけた言葉だ。

「……ごめん、。……今度は俺が、君を守る、から…一緒に─…」

 首を振る。

「あなたの言う通りなの。私は今ここにいるあなたを少しも見てなかった。過去の記憶に囚われて、勝手に…夢を見ていた。関わろうとしなかったくせに、あなたが私の言うことを聞いてくれるって、思い込んでいた」
「そのことは、」
「だから…─きっと、ここへはゼルダ様に言われて…来たんでしょうけど。もう、私のことなんて全て忘れていいの。忘れてほしい。都合よくあなたにまた守ってもらおうなんて、私も思わない」

 悲しげに、笑った気がした。いつものあの、憂いを帯びた顔だろう。直に見えなくても胸が痛くてたまらない。どうして今、俺は彼女を抱きしめて、慰めてやることが出来ないのだろう。

「…もう厄災も打倒した。リンクのお陰でようやく眠れる」
「…、っ待って、俺は」
「リンクがそうして、元気に立っていてくれてよかった。…本当に、よかった」

 呆然として何故か動けない俺には振り返りもしてくれないまま立ち上がって、その高台から身を投げた。…と言ってもその身体はまやかしで、それでも思わず咄嗟に身を乗り出して手をのばすけれど、どこにも彼女はいなかった。くそ、と足元を叩きつける。
 朝日はだいぶ登り、やるせなく顔を上げれば眩しい陽光に目がくらむ。

『マスター。マイマスター、リンク』
「……?」
『マスターリンク。一つ提言致します。神託の巫女は、マスターや”ゼルダ姫”と同じ、厄災に対する防衛機構の一部です。今消滅した巫女が確かに百年前の魂である可能性八十パーセント。それを踏まえ、百年経っているこの時代に厄災を倒す必要があった現状で、再び神託の巫女が生まれ落ちている可能性六十七パーセント』
「…は、」
『…勇者リンクは何度も、神託の巫女の手を取っています。…判断はマスター次第ですが』

 それきり声は聞こえなくなった。今までにも何度か耳にした、退魔の剣に宿ると言われる精霊の声。その言葉をゆっくりと飲み込んで、俺はパラセールを確認して追うように高台から飛び降りた。


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