神殿を出て王宮へ急ごうと森へ戻ったとき、月光が一際煌めいた。何事か、と見上げている間もなく、肌で感じられるほど特大の魔力が森へと放射された。─とっさにマルタが庇ってくれたため、祈紗は無傷で済んだものの。目を開けたとき、辺り一面は炎に包まれていた。これが祈紗の視たものですか、とマルタは苦々しげに唇を噛む。
 燃え広がる森の中で、ラジェルが再建した神殿さえも、それまでなんとか形を保っていたものが次第に崩れ始めている。

「どうしますか、祈紗。王宮へ向かうか、ミルファークの安否を…」
「今の攻撃が悪神達によるものなのかは分からないけど、こうしてこの森…あの神殿に攻撃をしたということは、やっぱりあの洞窟の奥がとても重要なポイントというのは間違いないわ。なら、ここで対策を考えたほうが良い。あの攻撃が、何を狙ったものなのか」

 そう語る祈紗の中では、すでに最悪の展開が脳裏を過っていた。先程の攻撃は、我々人間の目に映る月の手繰る魔力によって放出されたものだ。この国、この土地において、月の魔力を操れる者など限られているだろう。その一人である国神は何らかの理由ですでに力を失ったと断定するのなら、あの攻撃は──。 あれほど敬愛を示していたミルファークのいるこの森を業火に投じるなど。かつて"唯一"愛しているのだと聞いたこの国土を焼くなど、祈紗の知る者ならばありえなかっただろう。
 ─つまり。ドゥムヤは敵の手に堕ちた、そう判断しても間違いはない。…であればもうすでに、この先何が起こっても、総て解決する術は無くなった。この月下でドゥムヤを倒さなければいけなくなった。懸念すべきことは、ドゥムヤを倒したところで問題が解決するのかどうか。未だ死の蔓延は起こっていないとは言え、いつ始まるかわからない。祈紗の予知夢に沿うとは限らないが、それでも不安は残る。

「一度ミルファークのところに戻りましょう。あの洞窟が、最後の砦かも──」

 大きな衝撃と音。途中で崩壊が停止していた神殿が、中から破裂するように崩れ去った。燃え盛る森の炎の熱が揺らめき頬を撫でる。反射的に閉じた目を開ければ、神殿があった場所には黒いモヤが何かを象ってそこにいた。目を疑っている間にモヤは輪郭をはっきりさせていき、やがて蛇のような蜥蜴のような、所謂ドラゴンを形作った。空へ向かってひとつ吼え、大地を揺らす。
 マルタは考えるよりも先に杖を振るった。祈りだけで結果を生じさせるそれは、ドラゴンに落雷のような光をぶつけた。ドラゴンは歯牙にもかけず、けれど攻撃されたその場所から黒いモヤがぶわりと溢れだし、大きな翼を広げ仰ぐと、暴風と共にモヤが祈紗たちへと流れていった。咄嗟に構えるものの範囲が広く逃げられず、一呼吸モヤを吸っただけで二人は咳き込んだ。喉が焼けるような、腐っていくような感覚。その事実に、マルタは眉根を寄せた。聖杯による知識を探り、一番近しいものを口にする。

「…アジ・ダハーカ。ゾロアスター教に伝わる悪竜。傷付けた先から災いが広がり、倒すことは出来ず封印しか手段がない。こんなものどうやって…!」
「…ひとまず私が宝具で弱められないか試すわ」

 頷き、マルタは掠れる声に祈りを捧げて治癒を施した。一方で眼鏡を外し、祈紗は疑似宝具─悪を除ける己が両目、その吉眼に魔力を込める。しかしそれは真の悪を相手するには足りず、祈紗から近い周囲の悪性を消滅させる程度に留まった。つまりは自身たちの安全のみ確保し、現状維持しか出来ない。ミルファークの安否を確認することも、王宮へ行った立香たちへ連絡を繋げる余裕さえ無いに等しい。
 アジ・ダハーカという悪竜は、傷口から邪悪な生き物が溢れ出し世界に死をもたらすために、英雄でさえも倒すことが出来ずどこかの山の地下に封印されたという。終末の際には地上の三分の一の生き物を喰らい、最期には英雄に殺される運命にあるとされる─祈紗たちの目の前にいるのはモヤが象っただけのもので"そのもの"ではないが、どちらにせよタラスクを調伏したマルタであっても─むしろ"殺した"のではなく"調伏"したからこそ、彼女では如何様にも出来ない。
 ギリ、と誰ともなく奥歯を噛み締める。そんな折、悪竜は空を仰ぎその翼を広げた。向こう側一帯を隠してしまうような大きな翼を動かし、悪竜は森を蹴る。そもそもとしてドラゴンの飛行にどのような原理が働くのかは長年の疑問ではあるが、悪竜はその一動作で空へと飛び立った。月明かりだけが辺りを照らしていた景色を闇が覆う。すると祈紗は急に前後不覚になり、地についていたはずの足が空を切った。

×


 大きな衝撃音がして、咄嗟にそちらへ目を向ける。とはいえ厳密にどこからその音がしたのかはわからず、揺れる建物に視線を流した。

『極大の魔力反応出現!位置は神殿のある場所です!そして特異点全体の魔力濃度がみるみるうちに…!』
『立香ちゃんの身体に影響が出るレベルで濃くなっている!王宮内の生命反応が途絶えていくが…っ、この濃い魔力のせいだな』
「…っ。レオナルド、マスターを帰還させられますか」
『わかってるとは思うが不可能だよ!聖杯の回収さえしていればなんとかするつもりだったが、現状ではどうあがいても無理だ!』

 踏ん張りながらもラジェルが立ち上がるが、ダヴィンチの返答に苦々しく唇を噛んだ。何が起こっているのか、誰に問うでもなく呟くと、ラジェルはカルナと戦っているドゥムヤを一瞥した。

「神殿の奥 、ミルファークが門番をしていたあの洞窟の向こう。あれは簡単に言えば冥界です」
「は…?」
「出入り口ということではない。おそらくは初めから、この土地はテクスチャが脆かったのでしょう」

 首を傾げる立香にラジェルは言葉を続ける。それは大方、祈紗がミルファークから直接確認したような事柄だ。かつてバビロニアで地面に大穴を空けたらその下にエレシュキガルの治める冥界があったのと同じ状況。神と切り離され神秘が薄れ始めた時代であれば、少し地面を掘ったところでバビロニアと同じようにはならないのだが─たまたま偶然、あの地のように、"悪いもの"が封じられている世界へと繋がってしまった。

「だからドゥムヤ王は国を滅ぼした。…国土ごと」

 息を飲んだ。自分でも説明出来ないような感情が胸の内に湧き、ぐっと歯を噛み締める。

「…どうにか…どうにかする方法はないの?国を滅ぼさなくていい方法が…!」
「ドゥムヤ王がそれを模索しない筈はないでしょう。
─相手は"悪"を名乗る者。国神の力が弱まっているような状態では、滅することも封じ込むことも不可能でしょう」

 ─本来の、歴史でも。
 この孔を塞ぐことは不可能だった。例え聖杯を使おうとも、数十年か数百年か先延ばしにされるだけ。国神はすでにこの地を見棄て、血族とされる最期の王族が一人他所へでも逃げればいいと考えていた。であれば、ドゥムヤがどう国を豊かにしたとて、その末期は回避出来ない。むしろ神秘が薄れていく西暦以後、そんな負を先伸ばしにするわけにもいかない。それを放置すれば、確実に準備を整えた悪神たちが地上へやって来て、この国を越え世界に死を蔓延させる。それが起きた時、必ずしも打倒出来うる英雄が現れるとは限らない。必ずしも人類の無意識が働くとは限らない。やがて滅することが出来たとしても、それまでにいくつの命が失われるのか。
 それならば、自分の箱庭で事を済ませよう。─それが、本来の歴史の、ドゥムヤの判断であった。
 それを許さなかったのが、悪神たちだ。どこからか別の悪意によって聖杯を入手し、己たちを見張り続けていた邪魔者であるドゥムヤを殺そうとした。ミルファークが命を削り用意した、悪神たちに効く聖剣を奪い隠し、彼が一番信頼を置く男─ロイに取り憑き。
 …そのロイが間際に投じた一石のせいで多少のズレはあるものの、おおむね悪神たちの思う通りになった。当初の目的であったドゥムヤは消滅していないが、巡り巡って何よりも頼もしい味方となっている。
 これでいい、とロイの死体に触れた異形はそれを吸収すると、今度は徐々に人の形を取り、ドゥムヤの援護の中でカルナやアサシンの攻撃をかわして王宮を飛び出した。それを追い天窓に足をかけたアサシンが瞠目する。なんだあれは、という呟きと共に、マシュの叫ぶような異常数値の報告。
次の衝撃に目を瞑る。重傷となっているだろうに立香を庇ったのはラジェルだ。危険を察知し、レーヴェたちはカルナがかばったらしい。丸い月が鈍く光る夜空が見え、何とも見通しがよくなった。星はなく、月以外は真っ黒だ。
 ばさり、と羽ばたく音。空全てを覆うかのようなそれの存在に気づくと、誰もが言葉を失う。一目で禍々しいものだと分かる。命を奪うものだと理解する。それでもここに、あれを倒せる者などいないと絶望する。ドゥムヤは薄い笑みで竜を見上げ、再び両手を広げた。

「我が国、我が民。全て死に絶やし世界へ庇護を広げよう。飢えることもない、争うこともない。ただ存在し愛されるだけの、俺の宝となるがいい─」

 静かに言葉が降りる。すると竜がひとつ吼え、翼を羽ばたかせた。

『魔力反応…っかなり膨大です!宝具が来ます!』

 マシュが叫んだ。同時にダヴィンチやラジェルが魔力障壁を編み上げるが、気休めにもならないだろう。
 その光景。悪竜が口先を上へ向け、天上の月はまるでドラゴンブレスのために魔力が手繰られているようだった。これがただの絵画であれば、酷く神秘的な構図だろう。
 防ぐ手立てもない。止める手立てもない。少なくとも立香では、思い付くことが出来なかった。視界の端でラジェルもカルナもアサシンも何かしら動いているが、その場で唯一立香だけは、ただ呆然と月を見上げていた。
 そう、立香だけだ。狭窄した頭では、そこに綺麗な音色が響き始めたことにも気付かなかった。








 

 紡がれる音色は子守唄のよう。穏やかで幻想的な声。ふわふわとあてのない、しかしそれで想像膨らむ言の葉。
 黙って聞いていた国王は、つまらなさそうにしているわりに真剣な表情で聞き入っていた。

「…ふうん。君、滅んだ西国の生まれか」
「はい」
「西国は確か竜が守護神だったね。どうして滅んだのかは知っている?」

 王の言葉に返す。

「竜が実際に国を守護していたのは遥か遠く。現代ではその名しか残っておりませんでした。信仰を失い廃れた竜は怨念と化しました」
「それを君が倒したと?」
「倒すなんてとんでもない。私は唄うのが好きなだけのしがない竜の墓守。ただ鎮魂の歌を捧げただけです」

 故郷を失った青年は、そうして国の食客として迎えられた。

§


「─空を覆う災いの黒。ひとつ吼えれば大地は枯れ、ひとたび翼を扇げば嵐が襲う」

 声が、立香の耳に届く。

「立ちはだかるは無名の勇者。
 その手に握るは王より賜りし月石の宝剣。
 あまねく光を束ね、誇り高き英雄達への願いを借り受け、悪竜を屠る力をここに宿す。
 これは吟遊詩、竜殺しの唄。災いを叫ぶ竜を鎮める祈りの唄。
 さあ勇者よ、眩い光で竜を灼け。招かれざる災いごと、その闇を浄化せよ─」

 困惑した表情ながらも、突如としてその短剣を輝かせたレーヴェは、まるで分かっているかのように剣を掲げた。どこかゆっくりとして見える動きで剣を振り下ろすと、悪竜は光に気付いたのかこちらへ向いた。
 しかし何をするよりも先に、剣の光が悪竜に届く。振り下ろされた光の筋に飲み込まれ、眩しさに閉じた目を開く頃には、どこか忌々しそうに一行を見下げるドゥムヤだけがいて、空は相変わらず真っ暗だが、塗り潰したような黒ではなくなった。

「…。あぁ…トルヴェール。うん、それなら…まぁ、仕方ないか。以前の僕が、どれ程先を見据えていたか、もう曖昧でわからないけれど」
「まさか本当に披露することになるとはね。よりによってこれを向けるのが君になるとは少しも思ってなかったよ」

 肩を竦めたドゥムヤは少し愉しそうだ。レーヴェは握った短剣を不思議そうに見ながら、どういうことかとトルヴェールへ視線を向ける。

「ドゥムヤに伝えた私唯一の武勇伝さ。それを言の葉に乗せることで再現する。そういう術だ」
「お前、竜殺しって本当だったんだな!」
「戦ったわけじゃあないんだけどね」
「…だからこそ、トルヴェールの唄はあの悪竜に対して弱点になり得た。……ドゥムヤ王はそこまで…」

 考え込む所をハッと首を振り、ラジェルは仲間たちの無事を確認するとドゥムヤに向き直した。

「…今の悪竜を倒したところで、時間が経てばまた同じものが現れるでしょう。あの悪竜は概念に近い。人というものが存在する限り尽きることはありません」
「その前に…ドゥムヤを…!」

 アサシンとカルナが武器を構える。余裕を崩さないドゥムヤと剣を交えるも、決定打にならず平行線だ。
 先ほど逃げたドゥルナスや、街へ向かったという祈紗たちも気になる。どうにかして現状を打開しなければ、帰還することも出来ず、再び生まれる悪竜を前に成す術なく敗北し、人理は崩壊するだろう。ラジェルは考える。カルデアから供給される魔力がなければ当に消滅しているだろう負傷に頭を痛ませながら、ひたすらに最善を考えた。─きっとあの人はああしているだろう、こうしているだろう。それが間に合えば。…そう組み上がってはいるのだが、ほぼ希望的観測だ。そもドゥムヤが敵となっている時点で、カルデアに出来ることは時間の先延ばしだけ。ラジェルがどうにかして真の姿に立ち戻ったとしても、得られるのは情報だけ。マスターを守ることは不可能だ。
 はやく、はやく。
 どうにか、間に合って─…

×


 アジ・ダハーカが王宮へ飛び立ったのを見て、祈紗は神殿へと戻った。─そこにミルファークの姿はない。最初から誰もいなかったかのように、崩れた瓦礫が散らばっている。視界に入った洞窟に近付き、恐る恐る覗き込んだ。脈動する闇に、祈紗は直ぐ様体を戻す。
 洞窟の向こうには何もない。ただ漠然と気味の悪い何かがあると理由もなく理解するだけ。

「…やめた方がいい。ここで君に取り憑かれでもしたら、救う方法はないよ」
「っ!……あなたは…」
「ドゥムヤ王…ここで何を?」

 洞窟の中から祈紗を押し出すようにして現れたのは、あの幼い姿のドゥムヤだ。しかし知っているものよりどこか少女らしさが失われ、そんな懐疑の視線に苦笑している。

「…探し物をしていたんです。かつて奪われ隠されてしまったもの。ドゥムヤが持つべき本来の光」

 胸に手をやり俯いた少女は、祈紗たちの横を通り抜けて外へと歩き出した。どこへ行くの、と分かりきったことを問えば、少女はおかしそうに笑って。

「全てを片付けに」

§



「もっと本気を出したらどうか?」
「…っ」

 黄金の鎧を奪われたといっても、それでカルナの動きが悪くなるわけではない。動けなくなっているラジェルやトルヴェールたちに被害が行かないように動いているとしても、一向に縮まらない間合いにカルナは眉根を寄せた。
 聖杯からの無限の魔力供給、由縁を持つ月が天上にあることで権能にも等しい加護。
 尽くを防がれ弾かれているため、カルナやアサシンの攻撃が効いてないというのならばまだ分かる。太陽の炎がドゥムヤの身を包む度、操る光の刃が速く鋭利になっている。気がする、というわけではない。事実として、対応のためカルナも動きを速めているのだから。
 ひとつの考えが頭に浮かぶ。その推察が正しいのならば、カルナはすぐにでも戦線を離脱するのが吉だろう。だが現状、アサシン一人では荷が重い。アサシンの属性が優位に立てるものだからなんとか渡り合えているだけで、奇襲からの一刀暗殺を得意とするアサシンでは抑え込めるかも怪しい。
 気付いてからはアサシンの援護にまわるものの、やはりどうにも押し返されている。徐々に速度を上げる刃は、同時に大きくなっている。

「中々粘るな…うん、本当はこの場所を破壊したくはなかったんだけど。まぁ…いいか。破壊された王宮も、今後の景色には風情があっていいだろう」

 彼らの知っているドゥムヤなら、最後まで戦いを楽しむのだろうが、ここに立っているドゥムヤはそうではないらしい。半数の刃を背に戻し、光輪を廻る。

「どちらにせよもっと大きな孔を空けないといけないしね。そこの彼のおかげで、ずいぶん力が貯まった」
「…!」

 やはり、とカルナは目を細める。

「…月明を見よ。そして死ね。悔いて融けよ─」

 空の月の輪郭が歪む。極大の魔力収束が報告される。ラジェルが防御魔術を展開しよう体を起こすが、よく見ればその皮膚は目を疑うほど皺が刻まれていた。万事休すか、と不安一色の立香は目を閉じる。

「…なっ──」

 何かが射出された音。背後から風が通り抜けたと思えば、魔力が衝突し勢い良く霧散する。ドゥムヤから漏れた声、いくつかの足音。

「善よ、清らかなれ。これは悪しきを弾く天上の吉眼。無慈悲なまでに─"悪逆の吉眼"!」
「君は…!」
「タラスク!」

 祈紗の疑似宝具によってドゥムヤが硬直する。それでも反射的にかこちらに襲い来る光の刃を、タラスクが見た目にそぐわない機敏な動きで弾きながら、各所に構えていた味方へ突進し、牧羊犬の要領で彼女たちの側へと集めた。動けなかったラジェルはどうにかカルナが移動させた。─祈紗たちの到着を見てか、ラジェルは気を失ってしまったが。

「ちっ…!」
「祈紗!無理はしない!」

 瞳に痛みが走り、祈紗はその瞼を下ろす。悪性を退ける彼女の瞳は、"悪いもの"であるならば確かに真性でさえ影響を与えられるが、しかしそれを扱うのはどうあっても只人。正味10秒ほどしか、あのドゥムヤを捉えることは出来なかったようだ。─もともと本物のように悪を消滅させられるほどのものではない。ただ自身のみを保護するために"跳ね返す"だけのものだ。カルデアでサーヴァント紛いのことを始めなければ、こんな攻撃じみた使い方はしなかっただろう。
 封じが解かれたドゥムヤは、面倒そうに目を伏せて祈紗を一瞥する。しかしそのすぐ側にいる人物に、珍しく表情を変えて見せた。

「…なるほど、サーヴァント。その術はこんな不可思議な現象も起こすのか。幼い俺」

 立香も一度見た、幼い頃のドゥムヤ。どうやら先ほど何かを投擲したのは彼らしい。

「何をしに来たの?その姿では何をすることも出来ない。例え聖剣を探し当てたとしても、その細腕では扱えない」

 幼い少女は答えない。眼前の王を見上げ、ゆっくりと足を進める。何を投げたのかと思っていたが、ひとつの剣がその間に落ちていた。…見たこともない剣だ。羽のように伸びた飾りが覆う柄に、碧い宝石が迸るように切っ先まで満ちた白銀の刀身。
 少女は剣を拾い上げると、しっかりと両手で握った。

「本当に耄碌したらしい。…いえ。でもこの姿では、聖剣を扱えないのは確かです。けれどそれはあくまでも、生き延びる前提があるからこそ」
「ドゥムヤ…?」
「私の役割はただこれだけ。この一振りさえ出来ればそれでいい」

 少女が微笑む。強い魔力が、今度はその剣に集った。眉を潜めた月の王が、手を仰いで光の刃を走らせる。それは言われるまでもなく、タラスクが少女の前に立ち塞がり、硬い甲羅で弾き返した。

「かなわぬ光を受けてこそ、尚も我は鈍く光る。在り方を写し、虹へと還し、月へと導く─"ゾーマ・アルマレティア"…」

 眩いといえるほどではない。けれど、今見ている、太陽をも喰い尽くさんほどの月の光ではなく、本来見知った夜空でゆるやかに大地を照らす月のような、そんな光。
 剣を振り上げると、その光はどこか呆然として見ている月の王を包み込んだ。








 

 ふと気付くと子供たちに混ざっている見知らぬ少年。他の子供たちに教養を教え、戦い方を教え、狩りの仕方を教え。調子にのって倒せない魔獣に喧嘩を仕掛け死にかけた時は颯爽と現れて無傷で倒すそいつが、同じ孤児ではないと分かるのはすぐだった。
 戦ばかりに明け暮れて、国政を学ぼうともしない戦狂いの次期国王。大人たちは現国王の嘆きを信じて、老いる国王に哀れみの目を向けたが、それは間違っている、などという浮浪の孤児の言葉を信じる者はいなかった。学ぼうともしないのではなく、学ぶ必要がないだけだと。
 国王が病床に伏し政から退いたことで側近が暴走し、すでにこの国は終わりを迎えていた。不作に続く不作、他国から流れてきた無法者の跋扈、魔獣が森から溢れてくる。飢えて弱者をいたぶるようになった男に、生まれた子供を食べようとして発狂する女。
 例えどんな悪評でも、戦狂いの次期国王の噂が出始めた頃から、そんな日常は見違えるように変化した。戦勝で手に入れた食糧や肥料。国軍自ら魔獣を討伐し、どうやって知り得たのか人々に合った職に着かせる。政に復帰した国王が先導したというが、全部全部、"戦狂いの次期国王"がやったのだと、少年に出会って潔く理解した。
 最低限生き抜く術を手に入れた子供たちは、そのうち森の魔獣の数を管理するのが当然になっていた。狩り過ぎず増やしすぎず、食糧としても、森に生き森を生かす存在としても尊重し。それはいつか王宮公認で仕事を請け負っていることになり、給金を得て街で商売することも出来るようになった。
 ある程度豊かになってからはあまり見なくなったその少年が、間違いなく王なのだと。

「オレは騎士になる!」

 少女が笑う。

「そうすればお前を守れる!」
「…女だからと馬鹿にするつもりはないけどさ。難しいだろ」
「お前より年上だぞ。王宮でひとりぼっちのお前をオレが守ってやんだよ」
「俺は特別製なんだ。年上だからこそ今まで鉄の剣も握ったことのない君には無理だね。そんなことより孤児院でも開いて貰った方がよっぽど助かる」

 少女は難しい顔をして、うーん、と唸った。

「でもじゃあ王宮でひとりぼっちのお前を誰が守るんだよ。こんなに頑張ってるのに皆お前を馬鹿にしてる」
「一人でどうにか出来るから一人でいるのであって、決してひとりぼっちなわけではない。そもそも守られる必要もない」
「頑張ってないっていう奴のほうが頑張ってるんだよ。お前にとっては当然出来ることでも、オレたちには出来ないんだから、それは頑張ってるってことだ」
「いや、意味わかんない。というか君、年上だっていうんなら淑女らしく言葉遣い改めたら」
「あはは、そうだな…ね!気を付ける!ます!」

 そう言いながらばしばしと少年の背を叩く。コネ使えないなら正面切ってやるしかないな、と笑う。
 それから宣言通り、少女は女でありながら入軍した。鬼気迫る勢いで平兵士から小隊長まで登り詰めた。確かにその元少女は、そういったことに長けた人材だったのだろう。
けれど。

「…王よ。ご報告が…」

 元少女は、自ら参加した周辺国との小競り合いで、一人突出して殉死したという。部下によれば、出世を望んでいたために武勲を焦ったのでは、と言われた。 その戦はこちらを攻め込むためのものでなく、戦神とまで恐れられる王との腕試しが目的だったという。
 なんて馬鹿なんだろう、と漠然と思う。性別は関係ない。男であろうと女であろうと、神の寵児を真似ることなど出来ない。ひとつの神秘も持ち得ない者が、王に近付けるはずはない。

「王よ、如何致しますか」
「わかったよ。弔ってあげて。それから今後、やっぱり戦は僕が出る。それから僕のいない魔獣討伐や防衛戦での戦い方を明文化しないとね」

 彼女が一際特別だったわけではない。等しく愛しい民の一人。
 それでも初めて、ドゥムヤに憐れみを向けた人物であった。

×


「………マウニ……」

 暖かな光が収まるのと同じように、少女の姿もいつの間にか消えていた。あの剣だけが床に突き刺さり、こんな状況で異様なほどに音が無くなった。
 さらに前方では、ドゥムヤが判然としない様子で立っている。

『…ドゥムヤ王の魔力が、半減…しています』
「何がどうなったの…」
「見ての通りよ。幼い方のドゥムヤが下から本来の宝具引っ張り出してきて、悪いのだけ浄化させた」

 下から?と首を傾げるが、ラジェルが言っていたことを思い出せば理解に至った。奪われた聖剣を探し出したということだろう。そして幼い姿では扱いきれないはずのそれを、自身を構成する魔力までも消費することで補った。…故に、この場に少女はいない。

「どうなの、ドゥムヤ。目が覚めた?」

 祈紗が視線を向ける。ドゥムヤは無言で 、ぼんやりと剣を見下げている。
 ぽろり、と水滴が伝う。紛れもなく彼の目尻からこぼれたそれは、そのまま床へと落ちて見えなくなった。

「…気軽な口を聞く不敬は許そう。彼女に免じてだ」
「それはどうも。ところで貴方休んでる暇無いわよ。自業自得だけど、いろんなものが手遅れになってるわ」
「…分かってる」

 努めた無表情が忌々しげに歪む。頭を抑えて、ゆらりと立香へ視線をやった。

「…もともとの計画通り、俺はこの地を消滅させる。であれば、君たちはもう用はないだろう…ああ、聖杯だったか。それがあれば帰るんだね」

 ため息と共に、ドゥムヤは自分の胸に手を突き立てた。瞠目して驚いている間に、鼓動する肉塊─心臓を取り出した。それを背後にあった光の刃で串刺しにすると、ぎゅるりと空間がうねって魔力の塊へと変化する。そして次第に杯を象り─。

「そら、持っていくといい」
「えっ…、でも大丈夫…なの…!?」
「夜明けと共に消滅するならこの方がいい。目的の物を得たならさっさと帰ってくれ」

 おずおずと近付き聖杯を受け取ると、どういうことだよ、と声が漏れる。レーヴェだ。少年は意味がわからないとばかりに数歩踏み出した。

「国を…消滅?どういうことだよドゥムヤ。今ので…こいつらが助けてくれたことで、全部解決したんじゃないのかよ」
「レーヴェ、」

 ある程度は事情を知っていたのだろうトルヴェールがレーヴェを諌めるものの、強くは出られず口ごもる。

「……何一つ解決はしない。彼女たちは、ただ僕の暴走を止めただけだ。今にも悪夢に魘されるように、民たちはひとつずつ幽明へと引きずり込まれているだろう。…カルデアの君たちも急いで去った方がいい。サーヴァントはともかく、そこの君たちは人間なんだろ?生ける屍になりたくなければ」
『…帰還準備、直に完了します』
「…ドゥムヤ…」

 レーヴェが泣きそうに顔を歪めた。

「…レーヴェ、を、…一緒に…」
『予想はしていたが無理だよ』
「…っ。どうにか…この国を、維持することは出来ないんですか!聖杯だってある…!」

 この特異点に来てからずっと胸の内に封じていた思いが噴き出す。
 カルデアでのドゥムヤは生前の事を語らない。物語を読んでその結末を哀れに思っても、きっとフィクションだろう、と軽く受け止めていた。だからこそ、王宮に秘められた真実に、立香は動揺していた。
 先王の企みで国が衰退し、ドゥムヤ王を疎んだ魔女が死をばら蒔く。─本当にそうであったならば、魔女を倒して終わっただろうに。

「この国を維持してどうするの?」
「っ、そんな…」

 ひどく冷めた瞳でドゥムヤが見下ろしている。泣きそうになっている立香を不思議そうに、そしてふと合点いったように頷いた。

「ああ、気付いていなかったのか。…この国はとっくに幽明と化している。放置すれば世界に侵食し、人類は滅ぶだろう。それでもこの国を維持したいの?」

 は?と息を止めた。どういうことかと困惑していれば、祈紗が息をついた。

「最初見た閃光。あれはあなたと国神ミサ=カリスが死に、この地の楔が無くなったことによって、最後の一枚が破壊された影響。あの後から日が落ちるのが短くなり、今のあなたが目覚めたことで─あるいは完全な夜となったことであなたが目覚めた」
「…夜…って…夜になっただけ、じゃないの?」
『立香くんには話していなかったからね。…星ひとつ見えないこの地の夜は、夜ではない』

 いつかの冥界を思い出す。日の光などない、暗く冷たい世界。ああ、それでラジェルは、立香がまだ冥界の主エレシュキガルとの縁があるかなどと問うたのか。別の場所とはいえ冥界の主からの加護がなければ、只人の立香が平気でいられるはずはない。エレシュキガルの加護と、それを強化する形でのラジェルの護り。…理解した途端、ぞくりと背筋が凍った。

「とうに手遅れなんだよ。トルヴェールはもともと死人みたいなものだし、レーヴェは短剣があるからまだ意識はあるが。…で、どうする?帰らないのかな」
『ご丁寧に君が説明してくれたお陰で、聖杯を入手してもそれは難しくなったところだよ。立香ちゃんが理解するまではシュレディンガーの猫だったのが』

 死人同然になってしまった。ダヴィンチは口にはしなかったが、理解した頭はそう囁いた。
 帰る方法はない。…立香の命と引き換えに、この地の特異点を修復出来るのだからいい、という大人のフリをした自分の声と、死にたくなどない、という自分の声が脳内を廻った。

「いえ…いえ、いいえ!あるはずです、生きてこの地を脱する方法が!」
「マルタさん…?」
「私はこの地の終焉を知る者と話したことがある。であれば…!」

 その言葉に祈紗は眉をひそめた。いつだったか、マルタが生前に出会ったという旅の者。この国の王を知る者。彼らが確かにこの国の滅亡に立ち会っていたのなら、マルタと出会ったのも当然"生きて帰った"からということになる。そしてトルヴェール。先ほど『死人同然』などと不可思議なことを言ってはいたが、それでも何かしら術がなければ後世にこの国の話を伝えられはしないはずだ。
 しかしその方法など思い付かない。魔力を切らして意識を失ったラジェルならば何か分かるかもしれないが、無理に叩き起こすわけにもいかなかった。

「本来の歴史、であるならば。この地が完全に幽明となってはいなかっただろう。沈み始めた国土を消滅させるのがもともとの考えだった」
「…物理的な沈下ならいざしらず、現状は不可能ってこと?」
「そうだ。そして僕が何かしら思い付いたとしても、それを君たちに開示してやる義理もない」

 手間を取らせたこと自体は、その聖杯で返しただろう─そうドゥムヤは目を伏せる。

『…天へと導く月の聖剣。つまりそれは、魂を"上"へ運ぶもの』
「ダヴィンチちゃん?」
『そこが冥界だというなら、存在する階位を引き上げることが出来れば…まだ死んだわけではない立香ちゃんや祈紗は、地上へ戻れる。そこまで来れば、あとはレイシフトでカルデアへ帰還させられる…!そういうことだろう、ドゥムヤ王!』

 細められた目元が柔らかくなる。肩を竦めて、ひとつ息を吐いた。

「勝手に影響を受けて利用するのは君たちの自由だ。好きにするといい」

 それからトルヴェールを一瞥すると、当人は右手を胸に頭を下げた。
 ドゥムヤの手に光が集う。次第に目も開けていられないほど眩しく瞬き─最後に焼き付いたのは、彼が哀しげに、しかしいとおしそうに微笑む姿だった。

「"気高き星見の勇者 細き腕に見合わぬ偉業
  これは我ら吟遊詩人 長く語り継がねばならぬ
  ああ気高きカルデアの 必ずや神のご加護あり
  ああ気高きカルデアの 尊いその使命 忘れるなかれ"」

 静かな歌は、確かに分かる言語に変換されているはずなのに、どこか虚ろに聞こえた。




「君が何者なのか、結局よくわからなかったな」
「彼らの言葉を借りるなら、疑似サーヴァントのような…いや、神官とか巫とか、そういうものの方が近いな。私たち吟遊詩人は、偉大なるオーディンのご加護を持って語り継ぐ。吟遊詩人である限り、その任を果たす限りは、オーディンの加護は失われない」
「だからこの光を持ってしても、ここに残り続けていられるわけだ」
「いずれ特異点が元に戻れば、私もどこかへ行くさ。だが吟遊詩人として、君の最期は見届けなくてはね」
「…ああ、やっぱり君の奏でる音は、安らぐなぁ…」

 広大な大地が、熔けるように崩れていく。氷山が砕かれ海へ落ち水へと変わっていくように、不可思議な変換が起きていた。大地も建物も、生き物も木々もすべて、無へと変わっていく。─消失するのではなく、無へと。

「僕はここに礎として残る。…ありがとう、トルヴェール」
「真相を語れないのは歯痒いね。西暦300年頃の王が、数千年経って海に沈んでるなんて、誰かが発見したら面白そうなものなのに」
「別に海に沈むわけではないんだけどなぁ…」

 すでに半身は光の粒子へとなっている。子供のように朗らかに苦笑して、やがて─熔けるように、その王は消えた。
 ─自らの神体を楔に、織物に糸を添える。最果ての塔ほど強力でなく、しかし重要な糸。ああ王よ、貴方が身を捧げることはなかったのに。身を捧げずとも、ちょっと一度滅ぶだけだろうに。
 …王はきっと、それが看過出来なかったのだろう。
 知っているとも!