追憶
じゃらり。手首からぶら下がる鎖が音をたてた。鎖を手首に繋ぐ枷は重くて、腕を下ろしたいのに手のひらに刺さる杭が腕を高い位置で壁に縫い止めていた。手のひらの血は乾き、腕自体がもう血の気を失っていて、感覚がなく痛みも感じない。
どうしてこんなことになったのだったか、ぼんやりとした頭を働かせた。
─このハイラルという国は、ハイリアという女神が見守っていた。私はそのハイリア女神の声を聞く巫女である。おもに自然災害などの神託を受け取り、王に伝え、民に備えさせるのが仕事だ。とはいっても毎日そんな神託があるわけではないので、普段はハイリア女神を奉じる神殿で祈りを捧げたり、戦いに赴く戦士たちに祝福を与えている。
…その戦士の中に、有名な人物がいた。名をリンク。武勇もさることながら、高いカリスマを持ち兵士たちを鼓舞し勝利に導く、まさに勇者。リンクとは、戦士に祝福を与える際、巫女の代表と戦士の代表という間柄で、時折顔を合わせていた。
「巫女姫様」
「! …勇者様、名前でいいと言っていますのに」
「少し気恥ずかしくて…こそ、俺はリンクでいい」
微笑む男に微笑みを返す。しかしリンクはすぐに難しげな顔になり、言いにくそうにしながら隣に並び、神殿の奥に鎮座するハイリア女神の像を見上げた。
「魔王が現れる、という神託があった……と聞いた」
「……はい」
数日前、私は確かにハイリア女神より、そのような神託を受けていた。神殿長に伝えたが、どういうことやら未だ何の返答もない。例えば民を避難させるなり、戦える者を集めるなり、やるべきことはたくさんあるだろうに。
「ああ、でも、リンクがそれを知ったということは、ようやく?」
「……いや」
リンクの表情は暗いままだ。言葉を待つ。
「……。逃げてくれ」
「え…?」
「魔王という神託に、皆が怯え…、誰が言い始めたのか、陰謀だのなんだのと…。……嘘の神託で民を惑わしたとして、を…処刑する、という話になっている」
信じられない内容に、まさかそんなと苦笑しかけるが、リンクの悲痛な表情に虚言ではないと理解する。どうして、とこぼせば、リンクは首を振った。
「俺のせいだ。俺自身が嫌な気配を感じていたこともあって、俺はの神託を支持した。…俺を気に食わない奴がいるんだ」
彼は強く、その勇姿を知る者からは圧倒的な人気を誇っている。彼自身の血筋は王家から程遠いどころか縁もない市井の出身だ。そんなリンクが国王からも信を得ていれば、気に食わない者は多くいるだろう。
「それに…、が一番多く神託を受けていることを…疑っている奴もいる」
「そんな…、」
「だから逃げてくれ。俺が時間を稼ぐ、どこか遠くへ─」
荒々しく神殿の扉が開け放たれる。驚いて顔を向ければ、幾名の武装した男たちがなだれ込んで来た。
「神託の巫女、!戦士リンク!共謀し民を惑わすとは悪辣なり!」
捕らえよ、と誰かが叫ぶ。リンクは私を庇うように立ち、剣を構えた。逃げて、と囁くように繰り返され、おぼつかない足で後ずさる。
…けれど。襲い来る戦士たちは、束でかかろうときっとリンクには敵わないだろう。しかしそれでも、そもそもとして、彼らは今までリンクが背を預け合い守ってきた仲間だ。よくよく見てみれば、彼らの表情には恐怖や困惑が見て取れる。故にリンクも防ぐことしか出来なかった。さらには、普段味方として戦っているからか、彼らはリンクの戦い方を知っているし、何より人数の差。あっという間に取り囲まれてしまっていた。
「あ、ああ…っ、やめて、やめてください!」
「巫女も殺せ!神託を偽った魔女め!」
「ひっ…」
「やめろ!を傷つけるな!」
私に向けられた凶刃をリンクが払う。しかし数が多く、次第にリンクには傷が増えていった。
「…っ、いけません!私のことはもう構わないで、逃げて、リンク!」
「そんなわけにはっ、─!」
庇われていた、リンクの背後にいる私を目掛けて剣が振り降ろされる。避けても避けなくとも、その剣はリンクをも切り裂くだろう。直前に気付き、私はとっさに両手を広げた。
「!!」
「あ…ああ…」
深く刃が食い込み、体が熱くなる。とめどなく血が溢れ、力なく倒れた。リンクが駆け寄り起き上がらせるが、彼の顔を見上げることも出来ない。それでも力を振り絞って、血に塗れた手をリンクに伸ばす。
「勇者リンク。あなたはどうか生き延びて。…魔王を倒すにはあなたしかいない、あなたがいなければ…いつか魔王が現れた時、人々は滅びるでしょう。どうか、どうか…」
「しゃべるな、、…!」
体から力が抜け、意識が途切れた。
体の傷は、一応申し訳程度に手当されていた。身じろぐだけで皮膚がひきつり痛みが走る。杭の刺さった手の感覚がないだけに、その痛みだけが鮮明に響く。
死んだものと思ったが、生かされているらしい。
あれから時間が経った。どれほどかはわからない、時折見たことのある女性が粗末な食事を持ってきて、濡れた布で体を拭くだけ。
そのうちに杭は外されたが、傷は歪なまま痕を残していた。
「女神ハイリア様…勇者はどうなっていますか?無事でいるでしょうか…魔王は…。ハイリア様…、ハイリア様…?」
牢屋に入れられてからずっと、こんな姿のままながら祈りを捧げる。
…今までなら、世間話のような内容でも、真摯に願えば何かしらの反応が返ってきていた。楽しげな感情だったり、悲しみの感情だったり、というものが。けれど今、なんの返答もない。捧げた呟きが、狭い牢屋に沈んでいく。
呆然として、困惑して、焦って。いつも近しくあった女神の声が聞こえなくなって、ただただ絶望した。
ある日。どこからか、がやがやと騒がしい音が聞こえた。複数の人の足音、武器の揺れる音。それを耳にして、思うより先に身が強張った。いつもの、食事を運ぶ者じゃない。
あの場で殺されずとも、民の前に引きずり出され、辱められ、見せしめのように首を落とされるのだろうか。想像して、心は恐怖で埋め尽くされた。
足音が近付く。
「!」
怯えたまま俯いていれば、聞き慣れた愛しい声がした。おそるおそる顔を上げれば、多少傷は負ったままながら、平穏無事でいるリンクが立っていた。後ろには数名の兵士。喉を引きつらせ、部屋の隅に後ずさった。
「、もう大丈夫だ。俺たちを陥れた奴は魔王に殺された。大丈夫、大丈夫…」
しゃがみこんで、なだめるように優しい声で、そっと手を伸ばす。頬を撫でた手は冷たくて、けれど無骨な戦士らしい、リンクの手のひらだった。
泣き声を溢れさせながら彼の胸に飛び込んだ。怖かった、寂しかった、悲しかった。言葉にはならず嗚咽に変わる。
「魔王という危機が…の受けた神託が正しいと、皆が理解したそうだ。俺に戦えと…俺たちに、また民を守れと…」
「………」
「……。こんな目に合って、辛かったろう。怖かったよな。次は絶対にない、必ず俺が君を守る。だから、俺のために…俺が愛するハイラルを、共に」
私の身を深く悲しみながらも、リンクの瞳には勇者としての闘志の炎が揺らめいていた。…この人は、どこまでも勇者なのだ。あんな目に合って、それでも国を守れなどと言われ、自分でも都合がよすぎると分かっているだろうに、彼は見捨てられないのだ。生まれ育ったこの国を。共に分かち合ってきた人々を。
優しく撫でてくれていたリンクの腕を止める。体を離して、彼の顔を見上げ、私は首を振った。
「……」
「お許しください、勇者リンク。私はあなたと違ってただの人なのです。私には、それでも立ち上がる勇気などないのです」
「………」
「私も、あなたのために戦いたい。あなたが愛するハイラルを守りたい。……けれど、もう……できないのです」
この日まで幾度と繰り返した、女神への祈り。
そんなはずはないと目を背けてきた事実へ、ようやく向き合うことになる。
「私には…もう、女神のお声が…聞こえないのです…」
それがなければ、私には何も出来ない。ぼろぼになった心では、戦士たちに祝福を与えることも出来ないのだ。
リンクについてきていた兵士たちがどよめき、リンクは息を飲んだ。泣きそうな顔で眉間にしわをよせて、再び私を強く抱き込む。
「すまない…すまない、。俺がもう少し、知恵の回るものであれば。君をこんなにも、傷つかせることもなかったろうに」
「いいえ、これは私の弱さ。あなたを信じることができなかった」
顔を上げ、そっと口付ける。長く牢屋にいたせいで、肌は乾いて汚れているけれど。
「おいていってください。私はここから祈ることしかできません」
「嫌だ、」
「いいえ。あなたと共に、あなたの愛するハイラルを守るために、そうしてくださいと言うのです。
魔王を倒せるのは、リンク、あなただけ。満ち溢れる勇気を持つあなただけなのです。大丈夫、あなたと魔王が対峙する時、女神ハイリアより加護があります。……投獄される前の、最後の神託です。どうか、行ってください」
肩を掴む手にわずかに力がこもる。泣かないようにと気を張りながら、どうにか微笑んで手を外した。
「あなたに出会えてよかった。最期にあなたと会えてよかった」
「……俺は、例え生まれ変わっても、君のそばに…」
もう一度だけ、最初で最期の彼からの口づけを受け入れると、リンクは力強い瞳で立ち上がり、踵を返していった。
外がどうなっているかはわからない。神託通り魔王が現れ、ハイラルを侵略せんとしていることは、リンクが解放されたことから見て間違いないだろうが。
…どうして。どうしてハイラルの民は、こんな目に合わせておきながら…。
そうまで考えて首を振り、自嘲する。
女神の神託は、ハイラルを良き方向へ導くためのもの。ハイラルを守る気持ちを失えば、女神の声が聞こえなくなって当然だ。
涙も枯れ、ひゅうっと息が溢れる。リンクと再会出来て、未練がなくなったのだろう。
──最初の記憶は、ここで途切れている。