Elder brother's wish Younger brother's will



01


 地上へたどり着くとGHSが鳴る。兄さんからだった。
 どうやらジュードとまで一緒に、トリグラフ―俺たちのマンションにいるようだ。大急ぎでマンション前へ行けば、沈んだ表情のジュードがマンション玄関で待っていた。決心ができたら来い、という伝言を託して、ユリウスは今どこかへ言っているらしい。
 ジュードはすでに、カナンの地への行き方をユリウスから聞いたそうだ。
 その方法。―強い骸殻能力者の命を生け贄に、カナンの地まで魂の橋をかけること。

「つまり、ルドガーかユリウスを殺せば、ってこと?」
「ユリウスはどこにいる」
「…部屋に、さんが待ってるって」

 ジュードの言葉に、俺は走りだした。エレベーターを待つのが惜しくて、降りてくるまで何度もボタンを押す。
 自室へ勢い良く飛び込むと、静かに座っていたが俺を振り向いた。
 何から聞けばいいのかわからない。溢れる感情を抑えこんで拳を握る。

「ビズリーは、エル…”鍵”の力を手にした。こうなった以上、やれることは少ない。
カナンの地へ入るには、強い力を持ったクルスニク一族の命が必要。命と引き換えに魂の橋を架けること…世界のために命を犠牲にできるかが、最後の試練よ。
 …ユリウスは、マクスバードのリーゼ港へ先に行って待っているわ。私の話を聞いて、覚悟ができたら…向かってほしい」

 俯く俺の肩に手が触れる。温かい優しい手だ。俺を守って死んでいったあの人と、同じ。
 …同じ?
 分史世界の。
 子供をあやすように規則的に叩かれる肩のリズムで脳が冷えていく。 けれどまだ、情報と感情に整理が付かない。
 控えめな声でミラたちが部屋を訪れた。にあやされた状態のまま、俺はそのことを認識だけしてひたすら頭の痛さを解消するため思考を巡らせる。

「…ルドガー。今のあなたには選択肢がある」
「ッ…?」
「ユリウスを使うか。私を使うか」
「また!俺を守るフリして突き放すのかよ!」

 の肩を掴んで叫ぶ。の瞳は相変わらず、俺を優しく愛おしげに見つめていた。

「…言ったでしょう、ルドガー。私は貴方を守るために今ここにいる。どんな方法でも、それで貴方を傷つけても」
「本末転倒じゃないか!俺はそんなこと望んでない!」
「それでも貴方は選ばなくては行けない。世界を取るか、エルを取るか、ユリウスを取るか。」
「なんでだよ!なんで俺がそんなこと―…」

 エル。エルの涙が浮かぶ。
 俺だって強要したじゃないか。父親が殺されることを。狂気に満ちていようといまいと、唯一無二の家族であることは変わらない。
 力なく腕を垂らす。霞んだ目でを見上げた。感情が、読み取れない。それはが隠しているからなのか、それとも俺がわからなくなっているだけなのか。

「私はね、ルドガー。貴方に幸せになってほしい。…あんな泣きそうな顔じゃなくて、笑ってほしいの。だからホラ、泣かないで」
「…
「落ち着いて。ね?…少し頭を冷やしましょう。ジュードたち、ごめんなさい、ルドガーを一人にしてあげて」

 間を開けて分かったという声とともに彼らが去っていく気配を感じる。は俺を椅子に座らせると、街で何か食べ物を買ってくると言った。アルヴィンがエレンピオスにも普及させたパレンジを買ってくるつもりらしい。
 の背に手を伸ばす。もちろんそれは届かない。
 あまりにも遠い。兄も、も。エルでさえ。
 俺は何のために力を手にしたのだろう。守るためだったはずなのに。
 俺ごときの力では、守りたいもの全部を守るなんておこがましいとでもいうのだろうか。
 足元で鳴くルルを見る。
 俺が絶対に譲れないのは―

だ。
▼エルだ。
























Elder brother's wish Younger brother's will



▼BAD…


 乾いた目を潤すためにまぶたを下ろす。幼いころの記憶がまるで昨日のことのように浮かんだ。
 ―綺麗な思い出だから、負い目があるから。そんなふうに言われたって、結局は過去なんて関係無かった。俺は今の俺が出会ったが好きなのだ。
 変わらず優しくて、気配りが上手で。何か悩んでいても俺たちには見せないで綺麗に笑う彼女。
 たとえ好きだという感情が嘘だと言われても、をまた失うことを恐れている心は本物だ。
 だから。
 だから俺は、を選ぶ。








 リーゼ・マクシア港に辿り着いた。ジュードたち全員と、ユリウスとその手を掴み剣を首元に当てている
 みんな俺を見ると驚いていた。ユリウスの剣を弾きを抱き寄せ距離を取る。何を、と呟く口を人差し指で塞いで、悲しげに俺を見下げるユリウスたちに視線を向けた。

「どうしてだ。お前は、そのとは親しくないだろう」
「そんなこと関係ない。好きとか嫌いとかじゃない。俺はただ、もう二度とを失いたくないんだ」
「ルドガー…私を選んでも、何も…」
「いいとか悪いとかじゃないんだ、。俺はを守りたい。二度と失いたくない。ただそれだけ。受け入れてくれなくったっていい。それでも俺は戦うよ」

 瞠目するを抱きしめる。抱き上げて優しく柱の向こうへ座らせた。
 ―その傍ら自分の双剣での両足を斬り付けると、驚くに微笑みかけジュードたちに向き直す。ミラはすでに剣に手をかけていた。

「この人数に、一人で勝てると思っているのか」
「……………さあ、どうだろう…」

 勝てなくたっていい。
 …そうだ、勝てなくたっていい。
 俺は―

を守って、死にたいんだ」
「…それが君の選択か」
「そうだ。これが俺の、俺自身のための選択だ」

 全員が武器を握る。多勢に無勢、しかも世界を救った精鋭たち。普通に戦うだけでは勝てないだろう。
 ポケットの時計を手にする。顔だけ振り返ってまたに笑いかける。珍しい、気丈なが泣いていた。

は、俺が守るよ」









 源霊匣研究の第一人者ジュード・マティス博士。
 同じく・カートライト博士。
 リーゼ・マクシア国王ガイアス。
 同国宰相ローエン・イルベルト。
 エレンピオス記者レイア・ロランド。
 商人アルヴィン。
 カラハ・シャール領主の妹エリーゼ・ルタス。
 元クランスピア社エージェント、ユリウス・ウィル・クルスニク。
 この日、世界的な重要人物が八名も姿を消した。

 リーゼ・マクシア港に残るおびただしい量の血は、激しく打ち付ける雨によって次第に薄れていく。

「…狂ったか」
「…クレミア。クレミアも…?」
「やめておけ、全てが水の泡だ…私にとってもお前にとっても。……そうか、ふむ。同じ状況であろうと、支えるものがいるかどうかというのは、そんなにも重要なのだな」

 マントをたなびかせるあずき色の少女は、手のひらで何かを生成していた。
 敵意はないらしい。泣いたままのを抱き上げている俺はじっとクレミアを見下げていた。

「…今までの者もそうだったよ。まったく皮肉なものだ。早とちりも程々にしろ」
「……?」

 クレミアの手の中には、俺が骸殻を纏った時の槍のミニマムサイズのそれが出来上がっていた。眼前に浮かび、発光しながら大きくなっていく。

「まったくどこからずれたものやら。偏差測定不能、、深度も測定不能。さしもの私もここまで来るのには苦労したぞ」
「…?」
「…間に合ってよかったよ」
「………」

 やれやれと肩をすくめて、クレミアはいつも俺が扱う時と同じサイズになった槍の切っ先を俺たちに向けた。

「…最後の一つになることをどうにか防いだか。さすがトップエージェント、頭が回る」
「何を…」
「No.F41B9。…時歪の因子を破壊する」

 見慣れた形の槍が、俺とを貫いた。

























Elder brother's wish Younger brother's will



03


 俺が決断出来ないようなら、兄さん―ユリウスを贄に魂の橋を架ける。ユリウスはジュードたちにそんな頼みごとをしていたらしい。
 の言葉を飲み込んでリーゼ・マクシア港へ急げば、自分の首に双剣の刃を当てたユリウスと、それを見守るジュードたちがいた。
 状況が状況なだけに咄嗟に止めに入る。覚悟を決めていたとしても、最後に話をさせて欲しかった。

「…覚悟は決まったのかしら、ルドガー」
「……二人と直接話をしたい。能力者の…ユリウスの命が必要だなんて、なんでそんな悪趣味な方法しかないんだ?他に方法はないのか?」
「ない。カナンの地に入るには、俺かお前、のうち誰かの命が要る。これがクルスニク一族の宿命なんだ」

 ふざけるな。ふざけるな。
 ―収まりかけたはずの激情が再び燻ぶる。みっともなく吐露してしまわないように唇を噛んだ。
 ユリウスは悲しげに苦笑しながら左手袋を外す。その下は禍々しく黒ずんでいて、ひと目でそれが時歪の因子化の現象だとわかった。

「そんなに悩む必要はないさ。は分史世界の人間、俺はどうせもうすぐ死ぬ。だったら、ここではを選ぶべきだろう?ならばこの命を意味のあることに使いたい。俺の命で…魂の橋を架けさせてくれ」
「…ッなんとかする方法があるはずだ!」
「…探したいのはやまやまだ。しかし残念だがもう時間がない」

 冷静に告げられた言葉に首を振る。選べない。
 ローエンならばなにか知っていないか。ミュゼならばなにか知っていないか。なら何か知っていないか。
 そうあがいても、何も新しい方法なんてわからなかった。

「離してくれ…ルドガー。今やらねば…お前かを犠牲にするしかなくなる…」
「…ッどうして―」
「分史世界の存在でも。もう一度に会いたかった…もう一度、お前とを会わせてやりたくて、ずっと探していたんだ。途中までの道のりが一緒の…似た歴史を歩んだ分史世界にたまたまたどり着いて、を見つけることが出来た。
驚いていたけど、それでも一緒に旅をすることが出来た。お前に会わせることが出来た。守りたいんだ、今度こそ。お前と、を守って死にたいんだ」
「俺はそんなこと望んじゃいない!」

 苦しみうずくまるユリウスを抱きとめながら叫ぶ。

「俺を守る、俺を守るって…俺はもう、子供じゃない…」
「……分かってやれよ。これがお前の兄貴の望みなんだ」
「………ッ、……………くそ…」

 ユリウスからゆっくりと離れた。涙がにじむのをこらえて、冷や汗をかきながらも気丈に立ち上がる兄を見る。それでもふらつくのをが支えていた。

「覚悟出来たか。なら…もう少しだけ付き合おう。俺を倒せないような弱虫じゃ…安心してを任せられないからな」

 苦しいはずなのに、辛いはずなのにユリウスは双剣を構えた。
 睨み合って―同時に地面を蹴る。手負いと思えないほど隙のない攻撃は、防御をするので精一杯だった。不調に従って攻撃力がそれほど感じられないのが救いだろう。
 今更攻撃できないとのたまうつもりはない。覚悟を決めたのだ。選択したのだ。

「前は悪かったな、ルドガー。今度こそ…本気の試験だ」
「ぐッ…」
「ずっと子供だと思っていた。俺が手を引いてやらなければ―守ってやらなければと。認めるよルドガー。お前はもう自分で全てを選べる!」

 それまでと違う重い攻撃が自分の双剣を通じて腕に襲う。ビリビリと痺れ剣の掴みが甘くなった。
 即座に後方へ下がる。痺れが収まるのを待って、すぐに次の攻撃を繰り出した。ユリウスはもう手加減をやめたようで、素早さも攻撃力も格段に上がったように感じられる。
 ―けれど、俺だって。
 俺だって今まで遊んでいたわけじゃない。"自分"と戦って、その弱点は理解している。ユリウスとだって何度も戦ってきているのだ。今までは勝てないという思い込みがあった。
 今なら。

「まだだ、ルドガー…この程度じゃ、とめられないぞ!」

 双剣でユリウスの攻撃を弾くと、その腹に蹴りを叩き込む。ユリウスはなぜか嬉しそうに口角を上げて俺にそう叫んだ。

「一族の悲劇も…ビズリーの野望も! 骸殻は人の欲望に、意志に反応する力!ルドガー、お前は…!」

 ユリウスが骸殻を纏う。強化されたことでまたさらに比較にならない速さで俺に攻撃を加えている。脇でが口元に手をやりながら驚いた顔で目を見開いている。
 エルのためにも骸殻は使うまいと思っていた。けれど、ユリウスが骸殻を発動してしまってはそうも言っていられない。

「うぐ…うあああああああ!!」

 槍を握りユリウスを貫く。最後の最後で、ユリウスは満足だとばかりにゆっくりまぶたを下ろした。

























Elder brother's wish Younger brother's will



04


 気づくとトリグラフの駅にいた。一瞬今までのことは夢だったのかと思ったが、そうではないだろう。今日のまかない飯は大盛りで頼むよ、なんて見知らぬ駅員に言われれば、嫌でもわかる。
 ユリウスは俺がエージェントになることを望まず、俺は入社試験に受からず駅の食堂に就職した。
 地面を見つめながら駅を去り、マンションに向かう。時折知った顔にユリウスがどうとか食堂の評判がどうとか話しかけられ、アルヴィンやレイアなどの面々も―俺のことを知っているわけではないようだったが、街の中にいた。
 住んでいた部屋のある階に着くと、勢い良くとある部屋の扉が開く。自分の声がしてすぐに奥の休憩ルームに身を隠した。
 遅刻しそうだと騒ぐ俺。身なりをしっかりしろと呆れる兄さん。ハンカチを手渡し俺のネクタイを直す。いってらっしゃい、と愛らしく笑い、それを間近で見た俺は照れている。視線を泳がせながら礼をいうと、が俺の手を掴んで指をからませた。

「おいおい、朝から目の前でイチャつかないでくれ。妬けるだろう」
「うふふ、ユリウスだって、私よりもルドガールドガーってうるさいくせに」
「今日はトマトソースパスタ作るよ。だから許して、兄さん。それじゃあほんとに時間やばいからもう行くよ!」

 俺はを抱き締めると慌ててエレベーターに駆け込んでいった。

「あれで機嫌とったつもりなんだからな」
「つられてるくせに」
「違いない」

 くすくす笑いながら二人は部屋に戻っていく。扉が閉じられてから、またゆっくりと歩いてその扉の前に来た。
 なにかを考えるでもなく、じっとドアノブを見つめる。中では笑い声と食器を触る音が聞こえた。
 ドアノブに手をかけ扉を押し開ける。見慣れた間取りの部屋だが、違うのは椅子や食器類の数と…ルルの腹回りだ。

「あら、ルドガー?」
「なんだ、忘れ物か?」

 ルルが訝しげにひと鳴きした。二人に目を合わせることが出来ない。何も言わずに俯いていると、二人は不思議そうに顔を見合わせて何かに気付いたように息をついた。

「ああ……そう。トマトソースパスタ、食べ損ねちゃったわね」
「気にするな。弟のわがままに付き合うのも、案外悪くない」

 瞼の裏に今までユリウスと過ごした記憶が蘇る。憧れた背中。一緒にだらけた休日。トマト料理に喜ぶ顔。
 が棚から取り出した懐中時計を俺に手渡した。ユリウスもそれに続いて傷だらけの時計を握らせる。視界がゆがんでいくのが分かった。

「もう行け、ルドガー。守ってやりたい子がいるんだろ?」
「………」
「あなたは、あなたの世界を作るの」

 ぽん、と俺の肩をたたいて、は机に腰かけた。目頭があつい。

「〜♪…〜」
「ッ、――ッ」

 時計をかざし骸殻を纏う。槍で兄さんの胸を貫いた。
 叫びたいのに声が出ない。二人の二人が口ずさむ証の歌が、俺の全てを許しているようで。

「…その"選択"は、きっとあなたを救うわ。…またね、ルドガー」

 微笑む。窓から差し込む逆光が、どこかを儚く見せる。
 槍の先で歯車がカチリと鳴り―世界が壊れた。





Elder brother's wish Younger brother's will



05


「ッ――!」
「目が覚めたか?」
「…クレミア?」

 悪夢から脱したように勢い良く目をこじ開ければ、目の前にはクレミアと思われる人物が立っていた。俺の知っている子供ではなく、大人の姿だ。
 混乱が残っていながらも意識がはっきりしているのを確認すると、クレミアが「うむ」と満足気に頷いた。
 後方にいるジュードたちも驚いている。いつの間に来ていたのか―クレミアと一緒に来たのだろう、もいた。
 そして何より。

「…にい、さ…!?」

 意識は失っているようだったが、泣いているの膝で横になるユリウスがいた。慌てて駆け寄って見ると、確かに息をしていた。
 生きている。今までの悲しみが溢れ出そうになったものの、今ここにユリウスが生きている不思議の方が俺の感情を支配して涙は出なかった。

「…どういうことだ、クレミア。何をした?」
「うん?時間を巻き戻しただけだよ」
「そんななんてことないみたいに!今更出てきて…!説明してよ!」

 レイアが泣きながら怒り叫ぶ。やれやれと肩をすくめてユリウスになにか治癒術と思われるものを行使すると、クレミアは空の月を背に俺たちを見た。
 いつものお調子者のような余裕の笑みではなく、まっすぐ真剣な表情で俺を見ている。

「そうだな、まず何から説明したものか…。
 ある程度聞いているとは思うが、私は子供の姿で一つ一つの容量を減らし、可能な限り多くの分史世界を破壊して回っていた。にはそれを手伝ってもらっていたのだ。何も説明していなくてすまなかったな、ジュード」
「聞きたいのは、そういう…」
「私の名称はステマ・ロード。原初の三霊が現れると同時に生まれた存在だ。果たしてその正体は、精霊の主でなく。精霊の王でもなく。全ての人類を悪意から守るため、人類の意志から生まれた概念だ」

 エリーゼもレイアもアルヴィンもローエンでさえ、全員が首を傾げる。理解しているのかいないのか、顔色を変えないのは精霊二人とアーストくらいだ。
 言葉を続けようとするクレミアに、アーストが盛大なため息をついた。

「クレミア、お前は一度黙れ。お前の説明は仰々しくて伝わりにくい、俺が説明する」
「ガイアスはクレミアの正体を知っているのか?」
「…長い付き合いだからな」

 アーストが前に出ると、ふてくされるクレミアに代わり話し始めた。

「クレミアは人々の代わりに強大な力に対抗する人類の無意識の力だ。精霊という自我意識が出来たことで、クレミアという人格が生まれた。力である以上、クレミアは精霊と同じような存在だ。だからこそ、四大精霊の卵である継精霊を育てる事ができた」
「その継精霊を育てるという役割は、三霊の内唯一人間を信じ味方をした当時のマクスウェルが、より人間と近くいるために私に与えてくれた仕事でな。…だが、永く人を見ているうちに、精霊と心が通わせられない未発達の人々―今で言うエレンピオス人が、特に黒匣を開発したことで疎ましく思ってしまったのだろう。源霊匣の審判からも隔絶する断界殻を作り、…エレンピオス人が衰退し絶滅すれば、同時にクルスニクの者も絶え、少なくとも分史世界がそれ以上は増えないと考えたのだろう」
「マクスウェルの思索はわかった。だが私たちが今知りたいのは、何故今になって現れたのかということと、ユリウスに何をしたのかということだ」

 苛立たしげに腕を組みながらミラが言う。
 おお?とひょうきんに表情を変えながら、クレミアは話の続きを語る。

「…道標集めはともかくカナンの地の出現において、私は一切姿を見せることはできない。それが契約だからだ」
「契約…?」
「私はその存在自体が稀有だなんだというのもあるがやろうと思えば何でも出来るのだ。だからクロノスたちに基本的に関わるなと言われてしまったのだ。その代わりにあることで力を貸すことを約束させた―それが契約さ」

 一息ついてからまた俺たちを見なおして、話を続ける。

「ユリウスのことは、さっき言ったとおりだ。時間を巻き戻した」
「…ユリウスは…時歪の因子になったんじゃ…俺は、だって、ユリウスを―」
「―この地点にも分史世界はあったのだろうよ」

 ちら、とを見て、クレミアは静かに答えた。

「貴様と戦ったことでユリウスは骸殻の段階が上がり、時歪の因子化が加速した。……分史世界が発現する寸前に、私が止めた。そういうことだ」
「なら!エルの時歪の因子化も―」
「…それは出来ない。………今これが出来たのは、アレだ、褒美だからな。なんの代償もなしにできはしないさ」

 それ以上の詮索をクレミアは受け入れず、咳払いをすると早々に次の話を語る。

「さて、本題だ。―魂の橋を架けるのに必要なものは、本来"証"であって"クルスニクの一族の命"ではない」
「え…?」
「ならどうしてビズリーは、エルは命が証であると?」
「一番最初に提示された証がそれだったというだけさ。…我ら精霊は、精霊術の代償に命なんぞ求めないだろう?」

 視線を下げ、躊躇った後に月を見上げる。珍しく沈んだ表情だ。

「…まぁ、霊力野が未発達なエレンピオス人にとっては、マナを奪われれば死に至る。それと同じと言われれば、そこまでだが。
 それに、命だと言外に誘導したのはクロノスだしな。
 次だ。ビズリーは早とちりしてリドウの命を贄にクロノスに橋を架けさせたようだが、先ほど言った通り条件を満たせば私がカナンの地への送り迎えをしてやれる。そうクロノスたちに許可させた」
「条件って一体なんなんだ?俺たちは本当に、その条件に―…」
「一つ。正史世界であること。
 一つ。クルスニクの鍵がいること。
 一つ。クロノスを倒しうる戦闘力を持っていること。
 一つ。本来の魂の橋の架け方を知っており、その試練を乗り越える器があること。
 一つ。正しくオリジンの審判に対する答えを持っていること。
 最後に問う。貴様らは―審判を超える覚悟はあるか?」

 纏う空気がばっさりと変えて俺にそう問いかけた。
 金色の瞳がまっすぐ俺を見ている。虚構を許さない視線。さきにオリジンの元へ行ってしまったエルを脳裏に浮かべて、その身に時歪の因子化の代償が差し迫っていることを改めて重く受け止める。
 …けれど。

「…ああ」

 強く頷けば、クレミアは表情を和らげ微笑んだ。

「うむ。よい顔をしている。目覚めの悪いものを見せて悪かったな」

 港の端に立ち両手を広げる。いかにも魔法を行使する時とでもいうような風が彼女を中心に巻き起こり、突然のことに驚き全員が身構えた。
 暴風が収まり恐る恐るまぶたを上げれば、長い階段のような橋が月に向かって伸びていた。

「すごい…」
「リドウの橋と全然ちがうー!」
「私はここか、あちらがわの出入り口で待つ。…何度も戦ってわかっていると思うが準備は怠るな。あの場とこちらは時の流れ方が違うからな、焦る必要はない。万全を期して、橋を渡れ」

 朗らかに微笑んで俺たちの背中を押してくれた。
 ジュードたちもほっと胸をなでおろしている。渡る猶予があるのならひとまずユリウスを休ませたい、そう提案すれば全員が了承してくれた。

は、ここで…」
「私もいくわ。やらなければいけないことが…あるから」

 ユリウスの看病という名目で、部屋に残ってもらおうと思ったのには俺が言い切る前に首を振った。説得しようにも、言葉巧みなに言い負かされる。ジュードやミラたちも、そうそうに諦めていた。

 再びクレミアの前に立つ。沈んだ日の空に浮かぶ赤子を見上げて、俺たちは強く階段を踏みしめた。