その後、伊達軍はほぼ三成さんの活躍によって撤退していった。私といえばなんと言っていいかわからないあの惨状に、ただ呆然とするしかなかった。放心状態であったものの、三成さんが最後まで守ってくれたようで無事城に戻ることが出来た。
一方、本隊こと官兵衛さん率いる雑賀衆達は、北条が籠城したもののなんと官兵衛さんの機転で無血開城にこぎつけたのだという。「北条も元から戦う気はなかったようだから大したことではないと思う」と菊千代さんは言っていたが―それでも素晴らしいことだ
と思う。私が対峙した伊達軍は、相手が今すぐ命を奪おうとしていたわけでもなかったのにこちらから仕掛けに行ってしまったのだ。話し合いで解決できたかもしれないのに。
そんなことを考えながら縁側で足をぶらつかせていたら足元の影が広がった。日が雲に隠れたにしては影が濃く、何事かと上を見る―そこには、見覚えがある大男が立っていた。
「………、刑部が我に言って来たのだ。の姫が殺生について悩んでいる、とな。変に自己解決されてはかなわぬと言われたので貴様の様子見がてら参った」
「…そ、そう…ですか…」
秀吉様はなにか言いにくそうにそう言った。視線は合わせずに隣に座り、しばし沈黙する。
「…刑部の話では、官兵衛の方は無血開城したのに対して貴様は交戦したから…だと」
沈黙を破りそう話してくれたが、私は小さく頷きながら下を見ることしか出来なかった。
菊千代さんや半兵衛さんには、初陣で死なずに帰って来たのなら上々だと言われたけれども、私はそうは思わなかった。それを伝えると、秀吉様は難しい顔をする。
「そうまで後悔するということは、ただ現状に満足していないということ。今回は、その結果に納得するしかないのだ…やり直すことはできぬ」
「…はい」
「もしすべて大失敗していたなら、それは菊や半兵衛の見る目がなかっただけのこと。そしてそれに許可を出した我の責任だ。元々奥に座するが仕事なのだ…前線に出る必要はなかったのだから、気に病む必要もない」
その言葉に顔を上げる。「しかし、」と秀吉様は神妙な顔で言葉を続ける。
「貴様が兵を引かせ補給と手当てを優先し、自身と三成を連れて敵の前へ行ったことで、本来なら見捨てられていただろう多くの兵士が帰ってきたのもまた事実であり、それは貴様の手柄だ」
「…秀吉様」
「菊は全く優秀な娘を連れてきたものだ。我へのあてつけだろうが」
自嘲するように溜息をつく。私が首を傾げると膝に肘をついて前かがみになり、組んだ両手で口を隠しながら呟いた。半兵衛が、とだけ言うと、また沈黙する。
…半兵衛さんの寿命の話だろうか、と重い話題に身構えるが、どうやらその推察は間違っていたようだった。―重い話題であることに変わりはなかったが。
「―半兵衛に、何故我に妻がいないのか、と聞いたらしいな」
「え、あ…はい。すみません、詳しい事情を知らなかったので…もしかしたら病などで亡くしていたのかもしれないのに、可能性を失念して」
「構わぬ。…豊臣の理念は知っているか?右に友を…左に力を。俺には昔、愛した妻と大事な友がいた」
表情を隠したままの体勢で淡々と語る。空を見て遠くを見つめる姿は、まるで威厳ある普段の彼には思えなかった。
「当時の織田の治世…そして何よりあの事件…。俺が力を求めるようになったのは、力がなくては何も守れぬと思ったからだ。妻は
強い女だったが、それは屋根の下での話。雑兵だろうと刀を持った男が現れては、為す術もなく殺されていただろう」
「……奥さんは…それで…?」
「否。…俺が殺したのだ。俺は強さが足りなかった。そして強くなるには、あやつは不要だったのだ」
秀吉様の告白に思わず息を飲んだ。何故こんな話をされたのかはわからない―おそらくは無邪気な好奇心が、今秀吉様に辛い過去を思い出させているのだろう。
菊千代さんと初めて会った時彼女は私に役割があると言った。三成さん本人にも聞かれて、その役割というのは『今後の縁談を円滑に断るため』なのではないか、と答えた。当人は自分一人のために妻を娶る事に怒りを覚えていたが、どうやらこの縁談は菊千代さんの独断ではなく秀吉様か半兵衛さんが命じたことらしい。
今そんな情報を整理して、思う。右に友、左に力を…というならば、何故そんな縁談話を勧めたのか。冗談で言ったら勝手に進んでいた、というわけではあるまい。
秀吉様の言葉を反芻して、あることに気付いた。それを思って、じっと秀吉様を見ていると、視線に気付いたのかゆっくりと振り返る。
「…此方は、思います。やはり、秀吉様はとてもお優しい方です。―大事な人がいることで全てを守れなくなる…と言うのはつまり、いざその大事な奥様を敵に取られた時選べない、ということではないですか?」
「何?我は…そのようなこと」
「今はきっと切り捨ててしまうと思います。でもそれは奥様を手に掛けることで覚悟を決めたから…今私事のために軍を捨てては、奥様の死が無駄になってしまう。いざという時に何者かの手で愛しい人を奪われてしまうならせめて…と、思ったのではないですか?」
そう問いかけると秀吉様は難しい顔をした。
「此方も、もし敵に捕らわれ足手まといになるなら、せめて彼方の刃で首を落としてほしいと思います。奥様が、屋根の下でだけと言ってもお強い方なのなら、そう思うのではないでしょうか?」
「……ねねが…妻が、俺を許している、と?」
頷けばまた俯いて考えこんでしまった。日が傾く空を見上げながら秀吉様の言葉を待つ。
…足手まといになるなら殺してほしいとか、思うことが随分変わったなと考えると少し顔に熱が宿った。私は、やはり―
「すまない。まさか、貴様にこうも納得させられることを言われるとは、思っていなかった」
「…大丈夫です、此方も思っていませんでした」
「大分話題の筋が逸れたな。 我が言いたかったのは、官兵衛は元々そういうつもりだったろうということと、三成にはそれが無理だということだ」
少し飽きれるように言う。三成さんには無理、というのはどういうことだろうか。
「あやつは我より不器用だ。…我を崇拝しているからこその障害か…命令を真正面から受け止め遂行することしか出来ぬ」
「……、それは…」
「我は切り捨てたが。三成は…恐らく貴様を持つ事でより強くなるだろう。今はまだ、己を足手まといだと思っていても…な」
秀吉様は少しだけ口角を上げて、その大きな手で私の頭を撫でた。少しくすぐったくてなんとなく笑ってしまうと秀吉様もまた笑って撫でる手を強くした。
「…ところでの。三成とは…どうなのだ」
「…どう、とは?」
撫でる手を止め、私は乱れた髪を直していると秀吉様は―まるで息子を心配する父親のような顔で「仲は深まったのか?」と聞いてきた。こそこそと内緒話をするような仕草だ。
「…と、特に…多分、何も…」
「そうか。…あれは女の経験が少ないからな…親しい女が男のような性格ではな」
「菊千代さんですか?」
「うむ。あやつは女の扱い方を心得ているが、元々武家の長男さながらの育ちだ。故に三成自身が女の扱い方を学ぶ機会にならなかった。今まであった縁談や面倒事も、菊か刑部が片付けていたからな」
すまない、と謝られ困惑しながらも、必死に三成さんの名誉を守ろうと言葉を返した。
「でも、我が君が此方のことを気にかけてくださったからこそ、こうして今の此方がいます。先の戦でもしっかり守ってくださいましたし」
「…ふ。そうか。ならばの、貴様自身はどうだ?男として三成をどう思う」
ぐっと言葉に詰まる。男として、―夫となる人として、彼の人をどう想っているか。
彼の足手まといにはなりたくない。秀吉様にではなく、彼のために力を尽くしたい。そう思うようになった切欠は、原因は間違いなく―彼への想いがあるだろう。しかしまだ、その想いがどんなかたちか分かっていない。恋なのか、愛なのか、憧れなのか、忠誠心なのか。まだ分からない、けれど―。
「…素敵な人だと、思います。秀吉様方のために力を尽くし、真面目に事にあたり…特定の相手に対しては乱暴なところもありますが、言葉も丁寧で所作も綺麗です」
「ぶっ」
「ふっ」
秀吉様が、私の言葉に対してなにか言いかけた時少し離れた所噴き出す音が二つ聞こえた。驚いて音のした方を勢い良く見れば、廊下の角の向こうから腹を抱えて笑っている軍師が二人。
「た、大師、あの子が素敵!素敵ですってよ!」
「素晴らしいじゃないか…!ここまで素直に三成君を評価出来る子とはね…!」
「刑部の皮肉に真面目にお礼言ってた時もそうだけど―っ、こんな感想が出てくるとは思わなかったわ!」
「な、なんでそんなに笑うんですかっ!」
菊千代さんと半兵衛さんの笑いにつられて、秀吉さんも―多少遠慮しているのか口元を隠しながら笑い始めてしまった。
恥ずかしくて自然と目がうるんでくる。
「―そ、そんなに笑うことないじゃないですか!こ、此方は…素直に想ったことを、言っただけで…っ」
「悪いね、君に笑っているんじゃないんだよ?三成君をちゃんと見てくれる子がいたんだって、驚いただけで」
「…結局此方のことじゃないですか」
「あれ?おかしいな」
先程よりかは収まったものの、未だに二人は笑っている。
呆れた顔をした秀吉様が、二人は放っておいてもう部屋にもどれと促してきた。素直に聞き入れその場を去る。戦も済んだのだからゆっくり休みなさいと笑いながら言う菊千代さんにむっとした表情をしながらお辞儀をした。
あんなにも笑われるとは思わなかった。というか、あんなに笑わなくてもいいではないか。何がおかしかったのだ。
けれど、うれしい。笑われたことは少々腹が立つが、許せないほどではない。こうやって、たいしたことではないことで誰かと笑えることが。
自然にふにゃりと口元が緩む。
それがどれだけの進歩だったのか、私は気付いていなかった。
感情に対して納得し諦めたのは、小田原での戦が終わって数日、秀吉様とあの娘が何やら仲睦ましげに私の話をしていた時だった。確かに女の扱い方など心得てはいないが、武人としての基本ぐらいは心得ている…が、それでは不十分なようで、何やら奴は私への感情を吐露した事を菊と半兵衛様に笑われていた。羞恥を感じるのは当人だろうが、私はどうも貶されている気がしてならない。…半兵衛様や秀吉様の言なら、何も文句は言えないのだが。
「…勿論、実際大切にする必要はありませんよ。今朝みたいな事があっても気にしませんし…まぁ、死なない程度に放置してくれれば」
奴当人にできる事は何かと聞いた時、縁談よけの人形と自称した。時折私に関しての面倒事を引き受けてくれているという菊や刑部の小言を思い出して、なるほどと納得しかけた。しかし考えてみれば、私一人の面倒事を避けるために婚儀だの結納だのと世話をかけることになることには到底納得がいかなかった。ならばせめて、人形は人形でも表に出して恥ずかしくない程度の素養はあるべきだと考え、半兵衛様や菊が作らせた書庫に案内した。…すると、大層嬉しそうに毎日通うようになった。それほど楽しいのか、今までがつまらなさ過ぎたのか。 だがある日、申し訳無さそうに奴が私の元を訪ねてきた。本当は菊を頼りたかったそうだが、菊はよく遠出をすることが多いので捕まらなかったようだ。要件は何かと聞けば、分からない単語やら文字が出てきたから教えてほしいと言う。余計な事に時間を割きたくはなかったが、素養をつけるよう勧めたのは自分だ。責任を持って時々わからないものを教えることになった。
それからまた少しして、立花が大阪城に滞在していた時。ひょんなことから奴が婆娑羅持ちだと知れた。ならば戦に出せはしないものかと武芸を勧める。奴はまた、喜んで笑んだ。菊や、帰郷するまでの数日だが立花が、変わる変わる時間を見つけては武芸の稽古に付き合ってくれていた。…後から考えれば、積極的に手伝ってくれていたのは護身を習わせるためと私自身の見栄のためだと思われていたようだが。
立花が帰郷する前日、別れの宴を開く少し前の事。部屋にいないと思って探して見れば、厨房で女中の真似事をしていた。と言っても大立ち回りしているわけでなく、隅で雑用をしているだけだったが。それでも広間に来た時の奴の表情は、それなりに満足そうだった。
いつのまにやら半兵衛様と親しくなっていた。城下に降りた時土産を頼まれていた団子屋で話を聞けば、書庫で出会ってそれ以来兵法を教わっているのだという。半兵衛様は物を教えるのがお上手だから、きっとすぐにものになるだろう。…しかし、防具を揃えようと思った時に半兵衛様に「もう注文してあるよ」と笑顔で告げられた時は、驚いた。元々の縁であった菊と、私と特別親しい刑部等以外と交流を持っていたことにだ。突然開花した魔性かとも思ったが、呆けた顔で「我が君のお力になるため」に日々研鑽しているのだと大まじめに伝えられて、少しうろたえてしまった。何故初期にああも手酷くされた相手にそんなことが言えるのか。
とある日、それまで妙に張り切って様々なことを学んでいた褒美と称して、やりすぎな一日の予定を改めさせることにした。いくらこれから戦に出ることも考え体力をつける必要があるとはいえ、普段から無理をしていれば、いざというときに体力が尽きているのが落ちだ。
すると、あの娘は困った顔をしていた。そして「空いた時間どうしよう」と呟いていた。趣味でもなんでもすればいいのに、そう思ってふと手を止める。この娘は、きっと趣味など持っていない。好きなこと嫌いなこと、おそらく食べ物の好き嫌いもないだろう。
―私と似ている。自分というものがない。私自身は、秀吉様の命を受けそれを全うし、ただ秀吉様のために命を捧げることをすべてにしている。それこそが他のすべてを覆うほどの喜びだから、それで日々に満足できている。だがあの娘にはそれがない。それならまぁ、仕方がないかと思うことにした。
城下へ出かけて、癖のように進んでしまった刀装具屋の店先まで来て、その日の目的がそうではないことを思い出しながらも、その隣に並んでいた店の品物を視界に入れた。
わかりやすいほど女用の根付。手前にあった七宝焼きが団子のように連なったものを見ると、何を思ったのかそれを引っつかんで店の中に入った。安い金を払い外へ出れば、あの娘がきょろきょろと周りを見ていた。困った顔をした後、私を認識するとうれしそうに目を細める。
こんな顔もできるのか、と思っていれば、その後案内した菊が気に入っている髪飾り屋では、自分の好みがわからないと泣きそうな顔をする。表情が変わるようになったのか、それとも感情が芽生えたことに気づかず戸惑っているのかは、分からないが。
その後の乱闘騒ぎに巻き込まれた時も、壁に抑えられてよくわからない理由で露出されていた足を触れられていた時、私の胸に黒い靄が生まれる。しかし当の本人は気にした様子もなく私の心配をしていて、それにすら舌打ちをしたくなったほど。奴を捕まえていた男を倒していた時は、正直複雑だった。男として、妙な感情を持った者として、守りきれなかったことが。
まるで私にいい所がない。アレだけ外に興味を持つ娘なら、…そう思って菊に戦に出すよう進言した。かなり渋られたが私自身理解していない考えに気付いたのか、その後からは思っていたよりもすんなり事が運んだ。
前線が予定よりも圧倒的に早く突破され、奴に被害が出る前に私が斬滅するため出兵の許可を求めるも、怯えながらも冷静に状況を判断し指示を出していた。さすが半兵衛様が直々に教えただけのことはある―と思っている間もなく、私は奴と二人で前線へ出ることになったのだ。豊臣へ害をなそうとしていた敵軍は、私に言わせれば取るに足らない雑兵に過ぎなかった。しかし初陣で、しかも女であった奴にとってはそうではなかった。恐怖に震えるような、焦りと混乱の入り混じった表情。ざわり、と私の胸に再び黒い靄が生まれた。何故そんな怯えた顔をするのかわからなかった―私の刃には怯えなかったのに。何故私が奴の表情を操れないのか。ひとまず死なせるわけには行かない。全てを消してしまってはいけない。死んでほしくはない。
せめてこの黒い靄の原因を知るまでは。
*
朝早く起きて着替えてから鍛錬のため稽古場へ向かう。日が出て少しした後にあの娘がやってきて二人での稽古が始まる。…が、暫く待っても来なかった。約束を違えるような人間ではなかったし、いつもの時間なのだから時刻を間違えるということもないはずだ。
仕方ないと汗を拭ってあの娘の部屋を目指す。途中、困り顔の女中が視界に入り、私に気付くと一礼した後話しかけてきた。「姫さまを知りませんか?」と。知るはずもない。「私もこれから部屋に見に行くところだ」と告げればそうですかと困り顔のまま厨に引っ込んでいった。
当の部屋に着く。襖を軽くたたいて来訪を告げるが返事はない。逆にあの娘の名を呼ぶがこれも返事はない。痺れを切らして襖を開ければ、布団は敷いたままぐしゃぐしゃになっていて、あの娘がいない。何事かと眉根を寄せれば、すぐ近くに荒い息遣いがあることに気付く。視線を床へ向ければ、うつぶせになってあの娘は倒れていた。顔は赤く、寝巻きを少し乱し苦しそうに顔を歪めている。
一拍置いて状況を理解し刀を投げ捨てて近寄り仰向けにしてやった。何故こんなところに転がっている。体調の変化に気付いて誰か呼びに行こうとしたのだろうか。
布団を見ると吐いたのか少し汚れていた。変えさせているよりかは、隣の自室へ連れて行ったほうが早い。抱き上げて部屋の外に出ればちょうど先ほどとは別の女中が驚いた顔で固まっていた。
「…熱を出したようだ。医者と、水。布団が汚れていたから私の部屋へ運ぶ。そちらへ呼べ」
「は、はい!」
女中は静かに走って行く。私はそのまま隣の部屋まで行き、乱暴だが足で戸をあけひとまず床へ寝かす。しまっていた布団を敷きなおしてそちらへ移動させてやり、夜着を肩までかけてやる。私は私で奥へひっこんで、動きやすいようにと鎧を脱いで部屋着に着替える。着替え終えた頃にちょうどよく医者と水の入った桶など一通りを持った女中が尋ねてきたので部屋に入れて容態を見させた。
「疲労から来る風邪のようですね。しっかり休めばすぐ治ると思います」
「…そうか」
「じゃあ、ひとまず薬はここに置いておきますね。二刻したらもう一度様子を見に来ますので、―」
そこまで言って医者は言葉をとめる。何だと問えば私は今日どうするのかと聞いてきた。
「…何故私の予定を言う必要がある?」
「不快にさせたんならすみません。もし三成様がこの後他に用事があるなら、女中さんにいろいろお願いしておかなくちゃと思ったので」
「ああ…いや、特に用事はない。…看病は私がやる。この後どうすればいい」
「そうですか、じゃあ、目を覚ましたらひとまず水を飲ませてあげてください。適度に額の布を冷やしてあげてほしいのと、目覚めて起き上がる体力があるようだったらおかゆでも食べさせて薬を飲ませてあげてください」
「…承知した」
返事すれば医者は広げた道具を素早く片付けていく。するとふと思い出したように、こいつの顔を覗きこんで首をひねった。
「うーん、吸い飲み持ってきたほうがいいかな…」
「どうした?」
「いえ、このままだと脱水症状起こすかなって。口の中に上手いこと入れば意識がなくても飲み込めるので、吸い飲みだったら多分…女中さんに頼んできますね」
「ああ」
「口移しとかが一番早くて楽なんですけど、さすがにそんなことするわけにも行かないですからね」
「何…?」
「い、いえ、しませんよ?医者だからって緊急時でもなければそう簡単に口つけたりしません!」
医者の男は目の前で手を振りながら必死に否定する。
土瓶に水はある。私はそれを口に含んだ。
「三成様…―!?」
医者はあからさまに頬を染め湯気でも出ているのではと言うほど赤くなりながらどもっている。
いっぽうこいつは、苦しそうに顔を歪めながらも流し込まれた水を飲み下す。触れた唇と舌は酷く熱い、体温の低い私には耐えられないのではないだろうか。
「…じ、じゃあ、ええと、あの、その、えーと、失礼しました…」
「………」
医者はしどろもどろしながら外へ出て行った。何か用事でも思い出したかのような急ぎっぷりだ。
浮かぶ汗を拭ってやる。医者の話では熱だけで、鼻づまりや咳は無いそうだが―鼻呼吸では体温の調節が間に合わないのか、時折むせながら口で大きく息をしていた。私は生まれてこのかた風邪をひいた覚えはないためその辛苦が分からないが、やはり突然戦に出させたことが疲労につながったのだろうか。
額の布を氷水に漬けて冷やす。水を落とし元の場所に戻す前に、篭手を外した素手でその肌に触れた。普段の体温が分からないが、たしかに熱い。頭をなでて、水を含んで唇を寄せる。これはあくまで脱水症状とやらを避けるための処置である。…こいつは、私が倒れた時どうするのだろう。看病、してくれるのだろうか。
しんみりと一人物思いにふけりながら、赤い顔を眺めていた。
+
「う…」
「起きたか!」
「……うぅ」
「……、」
どうやら熱に唸っていただけのようだ。立ち上がりかけた体を戻して額に置いた布を冷や水につけ直して額に置き直してやった。
それからまたしばらく、待つ。後になって何故ここでじっと佇んでいたのかと気付いたが自分でもよく分からない。
一つ息を吐く。己は何をしているのかと。日はもう大分傾いている。と、ちょうど障子の向こうから合図がして、何かと問えば女中が昼餉を持ってきたがどうするかと問い返す。
「姫様の様子はどうですか」
「朝よりは幾分か顔色はよくなった」
「…まだ目覚めそうにはありませんね」
粥を作ってきたが、と私の膳を並べた後もう一度どうするか聞いてきた。置いておけ、そういえば小さく頭を下げてそのまま出て行った。蓋のされたそれと娘の顔を見比べてまたため息をついた。
「ん…」
「…熱いな。冷ましておくか…いや、無理に起こすわけにもいかんか。しかし…こいつは普段から一度寝ると起きないし…また…」
「いいにおい…」
「…!」
膳に向けていた視線を布団へ向ければ、うっすらと瞼を上げた姿が見て取れた。今発した声は大分かすれていた上に目の周りは腫れぼったい。
「わがきみ…?あれ…なんで」
「やっと目覚めたか。貴様は朝熱を出してずっと寝ていたのだ」
「う、そ。今、あれ、何時…ですか」
「ちょうど昼餉が持ってこられたところだが、昼は大幅に過ぎている」
嘘、と荒く息を吐きながら呟いている。どうかしたのかと聞けば今日の予定がと帰ってきた。
「厨の手伝いも…剣の稽古も、本も読み進めないと…」
「…そんなもの、体調不良をおしてまでする必要はない。今は寝ろ、どうせ体調が悪いまま本を読んだところで頭には入らん」
でもやしかしを言われる前に説き伏せる。その通りにこいつは押し黙り視線をそらした。
「そんなことよりも、だ。粥があるが、食べる元気はあるか?医者に薬をもらっている、腹に何か入れろ」
「…食べます。そういえば、朝ごはんも食べてないです」
「そうか。ほら」
手を出してこいつが起きるのを助けてやる。腕を引くだけでは起きられなさそうだったので肩に手をやり今度こそしっかり起こしてやった、が、支えを無くした途端ふわふわと危なっかしい。しっかりしろと言うものの空返事ばかりで意味がない。仕方なく私がそばによって肩を貸してやりながら粥を食べさせる。大分ゆっくりだったが、空腹ではあったようで杯一つ分完食したのを確認して、薬を飲ませてやった。
ゆっくりと布団まで倒して掛布を肩まで被せてやる。奴は、妙な顔で私を見上げていた。
「…なんだ」
「いえ…なんで我が君がいらっしゃるのかなと、いまさらですが」
「途方もなくいまさらだな。ここは私の部屋だ、部屋の主がいて何が悪い」
途端に黙りこむ。熱のせいか少しうつろだが目を開いて私を凝視している。なんだ、ともう一度問う。
「何故、此方はここに?」
「貴様が時間になっても稽古場に来ないから部屋まで戻ったら倒れていた。貴様の布団が汚れていたようだったからこちらへ運び看病している。それがどうかしたか」
「…どう、というか…何故我が君直々に看病をしてくださっているのでしょう」
今度は私が言葉に詰まる。そういえば何故だ。知るか。
「気にするようなことじゃないだろう。私の部屋である以上、親しくない奴にずかずか入ってほしくないだけ、だ」
きっと。
「そうですか。…ご迷惑をおかけします」
「気にするなと言った。ここへ運んだのは私だ、つまりこの部屋を使用するように手筈を整えたのも許可したのも私ということになる。だから私が責任を持って貴様の看病をしているだけだ」
「ありがとうございます」
「……」
たいしたことでもないのにこいつの口から発せられた感謝の言葉。なぜだかむず痒くまた私は言葉に詰まる。
熱で赤い頬、薄められほんのり涙の溜まった瞳。官兵衛などの節操のない男が見ればそれなりのものなんだろう。私はそんな風に感じないどころかいらいらしてくる。
「もう眠れ。早く休めばそれだけ早く回復する」
「…そうですね。ありがとうございます。―あ、でも我が君は…?」
「いざとなれば刑部の部屋がある。かまわない」
そうですかとまた目を細める。少し見合った後ゆっくりと瞼を下ろし、暫くすると寝息が聞こえた。しっとりと汗をかいている。体を拭いてから寝かせたほうがよかったか。
しかし、まぁ…いい。私もしばらくは暇だ。次こいつが起きたときに、提案すればいいだろう。心の中でひとりごちながら、普段なら口にしない昼餉ののった膳に手を伸ばした。
あまり美味しいと感じないそれを咀嚼しながら、ふといつだったか城下へ行った時に買った根付のことを思い出す。そういえばどこへ仕舞っただろうか。部屋を見回して、考える―たしか、引き出しの中に。箸を置いて確認すれば記憶の通りそこにあった。
それを見てから傍で寝ている娘の顔を見る。…あまり、似合わない。かもしれない。思いつきで買った上に、本人の趣味など知らない。
「……、」
引き出しの奥深くに仕舞いこんで、何もなかったかのように食事に戻った。
完食はしなかったが。